代表先生のお話し

半年が過ぎてから、高知市に隣接する吾川郡から高岡郡にまたがる地域に新たな布教所を設立する話が持ち上がり、その責任者に就任することになりました。25歳という若さなので、当地在住信者の代表から不安視する声がむくむくと湧いてきました。設立場所の設定から、お世話組織の組み立てに至るまで推進しなくてはならないのですから、不安は当然のことだったでしょう。

数々の奇蹟をいただき、心が打ち解けてきて一体感のある布教所づくりができました。その変化の過程の出来事は、大変興味をそそられると思いますが、別の機会に話すとして、ここでは私自身が教えに対する確信の深化を図られたことについて触れておきたいと思います。

中でも驚かされたのは、吾川郡吾北村のある家庭に案内されて訪問した時の出来事です。挨拶を済ませて、おしぼりが出されたので眼鏡を外して顔を拭こうとした時のことです。‘あっ!’と叫ぶのです。そして相手のご婦人が、しげしげと初対面の私の顔を覗き込むのです。

‘間違いない!’と得心したかのように「あの節は救っていただき、ありがとうございました。」と述べるのです。案内した方も私も意味がわからずに、豆鉄砲をくらったようになっていましたら、説明をしてくれたのです。それによりますと、数年前に病気で生きるか死ぬかという時に枕元に見知らぬ男性が立ち浄霊を取り次いでくれて、それで全快したと言うのです。

誰だか解らないままズ-ッと疑問として抱えてきたそうです。その人物こそ私の顔に間違いないと言うのです。この時、私は霊主体従の教えを確信しました。限界で起こることは、霊界で先に起きて現界に移写されるということです。それを文言ではなくて、直に教えられたのです。

先月救いの連鎖という話をしましたが、これなどはその一例です。精一杯御神業に取り組んでいれば、霊線を通じて縁のある人に光が及んでいるということです。共時性です。意識せずとも因縁の人は共に生き共に進んでいるのです。

ですから、『因縁の人が因縁の人を救う』という教えの通りです。そうであるからこそ、‘今日ただ今’という時を精一杯生きていく意義があるのです。そして精一杯生きていれば、次に救われる人に連なるということです。