『きりょうはいいが、中身が悪い』の項

創唱宗教の信仰生活とは、「教祖の精神を現代に求める」という取り組みの積み重ねである一面を有しております。

「教祖の精神」とは、御論文と問答、詩歌の中に脈々と流れております。それ故に御教え拝読が大切なのです。そして、世界救世(メシヤ)教系列教団で「景仰」が何故ベストセラ-となったのかを考えると、そこに大きな存在意義を誰もが見い出したからに違いありません。

生き神様のご日常をつぶさに垣間見ることができ、様々な時所位の人々への接しられ方を学ぶことができます。そして、何より、教えを垂れるだけでなく御自ら教えの実践者であられたことを証し立ててくれる内容が、活き活きと伝わってくるからであります。

一方、教団としては、「景仰」の拝読の仕方に深みが欠けると、本来の働きを遂行できない事態を招いてしまうことも事実です。それは、教祖のご神格に大きく関わるからです。『神様のされることには無駄がない』『神意は奥の奥のまたその奥にある』というお言葉から拝察すると、お一言お一言に深い意味がこめられている場合もあるということになります。

そのお一言をどのように捉えてゆくか、ということが求道であります。

求道というものは、少しでも油断すると停滞してしまい、堕落する恐れがあります。人間の弱さから来るものです。そのために、絶えず適度な緊張感を持って教祖の立ち居振る舞いに触れ、お言葉に耳を傾けていなければなりません。

当然、側近奉仕者の掛けていただいたお言葉に対して、上司はどのような意味があるのかを求めてゆかねばなりません。何故なら、教祖御自らご口述された原稿を何度も推敲され、万人誰もが理解できるように努められたからであります。『神のお言葉』を人間としてどのように求めてゆくのか、という取り組みの鑑がそこにあります。

≪本文≫

明主様(メシヤ様)はクサヤがとてもお好きでした。それからカメイド大根を一夜づけにしたものとか、果物ではミカンを好まれました。

しかし、リンゴは『きりょうはいいが中身が悪い』などとおっしゃってあまり好まれませんでした。(側近奉仕者)

≪解説≫

この短い文章の中には、考えなければならない内容がしっかり詰まっております。まずクサヤというものとリンゴというものを対比して記述されており、様々なことが頭を巡ります。

多様な価値観をお認めになり、しかも、それらを緩やかに束ねてゆかれようとされた方が何故好き嫌いを表明されたのか、ということです。まず、リンゴのことですが、創造主のお立場からすると好き嫌いがあるということは不自然です。

リンゴは例えとして、というのが自然

どちらかと言えば、例え話と受け取ることの方が自然のように感じられます。つまり、リンゴに例えられて『あなたも、きりょうはいいが中身が・・・』ということをご指摘された、とも考えることができるのです。

もちろん、押し付けるということはなさいませんので、『受け止めることができれば、素晴らしい』し、『受け止めることができなければ、時期を待つしかない』ということであられたと思われます。『教えというものは身魂相応に受け取ることができる』ということを繰り返されていますので、当然そうした願いがおありになられたと思います。

奉仕者の上司の方が「それはあなたも『中身を磨け』という思し召しではないのかな。私ならば、そのように受け取らせていただき、一層精進させていただくよ。しかし、あなたのお蔭でこのようなお話を伺うことができて、有り難かった。ありがとう。」とアドバイスしていたらどうだったでしょう。その後の教団の教化育成は随分と変化していたのではないでしょうか。

そうした解説を加えてくれた先達に恵まれた方々は、即向上へと繋がり、さぞ幸せだったことでしょう。そして、信徒みんなの課題として受け止めることができたならば、さらに幸せが拡がり、なんと素晴らしい宗団となったことでしょう。

クサヤについては

それでは、対比されるクサヤについてはどうでしょうか。まず、特異な臭いで知られています。そして、その味は一度ひきつけられた人は忘れられなくなり、特に酒の肴には最適という人もいます。クセがあるが、これが非常に良い、という訳です。このことについては次の引用文が参考になるかと思います。

宮大工棟梁であった故西岡常一氏は「木のいのち木のこころ」という著書で「癖(木の)というものはなにも悪いもんやない。使い方なんです。癖のあるものは使うのはやっかいなものですけど、うまく使ったら、その方がいいということもありますのや。人間と同じですわ。癖の強いやつほど命も強いという感じですな。癖のない素直な木は弱い。力も弱いし、耐用年数も短いですな」と述べております。

クサヤを通して、『癖は考えようによっては良いところとなる』、『持ち味を生かしてやれば、力を発揮することになる』ということを私達に教えられているように思えてなりません。

そして、『異質な人と人がお互いに認め合って、多元的な価値観を認め合って、そして持ち味を発揮できるように、お世話に当たりなさい』と教えられていると受け止めることができれば、素晴らしい宗団となることは間違いありません。

江戸っ子流の喜ばれ方があるはず

それから、クサヤそのものについても、もう少し突っ込んでお尋ねになれなかったのか、と思いますね。突っ込んでくれれば、初めてお召し上がりになった折の逸話や、どのように好まれたのか等、味わい深いものがあると思います。

奉仕者という立場ですから、恐れ多くて突っ込みはできなかったこともあるかと思いますが、メシヤ様は江戸っ子ですから、かえって喜ばれたと思えてなりません。立場の上の方は必ずお話しを伺っていると思います。それらを、編集の際に添えていただきたかったですね。

また、リンゴについても、リンゴを食材にしたアップルパイやリンゴを擂(す)り込んだカレ-などはテ-ブルにお出ししなかったのでしょうか。食事を担当した奉仕者の方々は挑戦してみなかったのでしょうか。「誠」とは、そのような取り組みの中に垣間見ることができると思います。

その挑戦があって、メシヤ様はどのような反応を示されたのか知りたいところです。献上品であった「鮎」の焼き方についてお叱りをいただいた方の記述に照らしてみると、きっと新たなお話が積み上げられたことでしょう。そのような編集があれば、もっと有意義だと思えますし、ただ単に「メシヤ様はリンゴを好まれなかった」ということでは、深みに欠ける編集のあり方だと感じます。

≪問題解決するための留意点≫

「教祖の精神を現代に求める」ということは、このように「教」、「論」、「律」で組み立てることによって成り立ちます。お言葉が「教」であり、それをどのように受け止めるかが「論」で、受け止めたことをどのように日常生活で実践してゆくのかが「律」です。

今回比較的わかりやすい事例を取り上げて解説いたしましたが、大切なのは受け止めたことをどのように実践するか、ということであります。その意味で、今回掲載する次の「体験記」は非常に参考になると思われますので、是非活用していただきたい、と願います。

信仰は力を授ける

体験記に戒律的な取り組みが出てまいりますが、何故その取り組みが必要なのかという説明が「論」です。そして、その根拠となるものが「教」です。御教えですね。そして、毎日の取り組みが「律」です。

御教えというものがあって、それを鑑として現代というものが理解できて、その現代に身を置く自分の影響を受けている実体が浮き彫りにされます。そこで、より良い方向へ進むために自らが自発的に課題を設定することができれば、素晴らしいことになります。

そして、課題に向けて取り組み始めた時に弱さが出ることがあります。集中力を欠いたり、継続できなかったり、事情に流されて責任回避したりします。その弱さを克服するために一般的に戒律というものはあります。しかし、戒律のみが前面に出てまいりますと、本末転倒になってしまうのです。守られているか守られていないのか、ということが優先されれば、これは本来の願いからは遠ざかってしまいます。

人間の弱さとは、「夜の時代」となって以来人間本来の心言行が変質したことにより生じております。時代の流れの影響を受けてのことなのです。そのために戒律を有り難かったりする宗教も多いのですが、戒律がなくとも身を修めることができ、ご神意を覚ることができる、ということが理想です。

因みにメシヤ教には戒律はありません。メシヤ様は『行があるとすれば、「下座行」と「浄霊の時に手の力を抜くこと」「時間を守ること」くらいだ』と仰られております。どこまでも人を救うために「行」というものがあり、人を救わせていただくことを通して、結果的に自分も幸せになるという教えです。

そして、本来弱さが出た時に力をくれるものが信仰なのです。正しい方向へ進む者に神様は力を授けなければならないからです。そこで方向が正しいかどうかを吟味することが、これまたお世話でもあるのです。

メシヤ講座で時代性について度々触れてきたのは、現代に生きる中でお一人お一人が人間として備えてきたもの、あるいは失ってきたものを明らかにするための一助となることを願ってのことです。そのことを受けて、自発的に課題を設定して自分づくりに努めていただきたいのです。今後より一層問題意識をもって研鑽に励んでいただければ幸いです。

平成18年1月メシヤ講座より