御教え集22号 ②法というのは乱れさせないこと

それで法というのは何かというと、文字の解釈から言うとサンズイに去というのです。ですから水を去るのです。それで法というのは火で経なのです。ですから法は曲げられないと言います。つまり法はまっすぐでなければならないのです。そこで仏の「法」は月ですから水になるわけです。そうして下の「法」が火になるわけです。ですから水火ですが、これは逆になるわけです。火水が本当だが、つまり夜の世界は水が上になって火が下になるわけで、逆になっているわけです。ですからどこまでも「法」というものが根本になるわけです。それを「教」の字にしてしまったということは、一つの間違いだったのです。だからだんだん仏教がくずれてきたというのは、これは「法」の力がないからです。それで「法」というのはなにかというと、つまり乱れさせないことです。ということは、間違いはさせないということです。ですからなにごとにも法があるのです。日常生活にもチャンと法があります。これは前によく言いましたが、人間の行でも言葉でも、小さい法があるのです。ですからそれに合わなければいけないのです。要するに理屈に合うことです。神様のことは理屈に合えば良いのです。ちょっとおかしく思っても、根本が理屈に合っていればそれでよいのです。理屈に合わない点が一つの間違いになるわけです。いま話しをしたのは再浄化についての一つの前提です。再浄化というのは、いったんなおったのがふたたび悪くなるというのですが、これをよく考えてみると、どんな重難病でもなおったとしますと、いままで寝たきりだったり、なにもできなかったりした人が、普通人のような行動ができるのですから、たしかになおったのです。それで再浄化というのは残りの毒素が排除されるための浄化作用ですが、そうすると最初のときよりももっと軽いのは決まってます。ところが最初のときよりも重くなって死ぬことさえあるのは、これは理屈に合いません。ではそれはどういうわけでそうなるかということを書きましたから、いま読ませます。

 

(御論文「信仰の合理性と再浄化」朗読)著述篇11巻506-509

 

【御講話篇10 P225】