御教え集23号 ④神様の愛は大きくて深い

いま言う「ぜひ命を助けていただきたい、病気を治していただきたい」というと、神様のほうでは「お前は信仰にはいっているのだろう。オレのほうでうまくやってやる。そんなにセッツイテ頼まなくてもよい。そんなにオレを不人情に見られてはおもしろくない。お前のほうで頼っている以上、オレはお前の命はどんなにしても助けてやる」ということになります。

従来の信仰で、水浴び、断食、お百度参りなどをしたら助けてやろうというのは本当の神様ではないのです。やっぱり邪神です。それで神様の愛は大きく深いのですから、人間次第なのです。人間のほうで頼ってお任せする以上、神様は任せられる以上は助けないわけにはゆかないというわけですから、神様としては任せられる以上一番責任が重くなるわけです。

ですから神様にお任せするということになると、神様のほうでも大いに助けよいのです。その考えですが、やっぱり小乗と大乗の考え方です。それで神様としては、神様の役に立つ者はどうしても助けます。それから邪魔したり役に立たない人間は、その人間が分かるまで手を引かれて時を待たれるのです。

神様というのは、いまの睾丸ができたというように、たいへんな御力で、助けようと思えばなんでもないのです。ただ助かる条件が揃わないのです。ですから人間のほうでその条件に持って行けばよいのです。私は以前、まだ信仰の浅い時分に、神様のほうではオレを殺したらたいへんなマイナスだ、だから神様のほうで助けるのがあたりまえだ、というように思ったことがあります。これはどっちかというと私の自信です。それで神様はそれに対して気持ちを悪くなさらないのです。「ヨシ、お前にそのくらいの自信があれば助けてやろう」ということになります。

オレを失ったら神様のたいへんな損だ、だから神様はオレを助けなければならないという、そのくらいの自信がなければ、本当はいけないのです。ですから神様に対する観念、見方というものを本当は知らないのです。

ということは、昔からの宗教で神様を見る神霊観というか、その本当のものができてないからです。そこで神様のほうもいままでの神様はみんな技の神様ですから、神様の考え方もまだ本当のところに行っていないのです。だからいままでの神様というと、たいてい天狗とか狐とか龍神が多いです。ですから本当言うと、神社が一〇〇あると、本当の神様は一〇も難しいでしょう。あとはみんな邪神系です。邪神系でなくても、邪神のために神様が瞞されているのです。そういう神様もたくさんあります。そこで本当にすがれるという神様はいくらもありません。それでむしろボロボロになった神社で、あんまりかまわれないような神社に、よく本当の神様がおります。伊豆の伊東に玖須美神社というのがありますが、古いやつれているほうが本当の神様で、いっぽうの公園にある普請したほうは枝の神様です。それを見たときに、私はつくづく思いましたが、かえってよい神様のほうがやつれているのです。というのは約三〇〇〇年前に日本系の神様が押し込められて、外国系の神様のほうが来て、それが日本を統治したのです。そのためにいま言ったような形になったのです。こういうことはそうとうおもしろいのですが、ただ必要がないから私はそういうことを説かないのです。それにそういう神様の詮議立てをしたところで、それがために体が健康になったり、人間の不幸がよくなるわけではないのです。それでいままではよくそういうことを説いてありますが、救世教としてはそういうことは必要がないからやらないわけです。一つの参考とするか、というくらいの程度でたくさんです。話はいろいろになりましたが、ただ神様の見方、神様の解釈、要するに神霊観を、いままでの考え方と違えなければなりません。それで一番神様の思し召しにかなうということは、多くの人を助け、人類を救うということです。ですから一人でも多く信仰に導いて救ってあげるということが一番です。だからして自分が救われたいというのは、神様のお役に立つ人間になることです。神様が、その人を見放しては神様のほうに損が行くというような人間になればよいのです。それが神様の御心です。ですから神様の心を心としてというのは、その点にあるのです。だから一生懸命に拝んで、ただ祝詞をたくさん奏げるということは、決して悪いことではないが、そのために多くの人が助かるという意味にはなりません。ただ自分が早く助かって多くの人を助けるという動機になるわけです。ですから、自分の罪をお許しいただきたいというのは結構ですが、ただ自分の罪を許されたいというだけでは、一つの自己愛ですから、自己愛では駄目です。ですから私は前に大本教にはいったころに、家内が「自分はどうも地獄に行きそうだから、天国に救われたい」と言うから、「オレは地獄に行っても結構だ。世の中の人をみんな天国にあげてやって、それで地獄に行くのなら行ってもよい。君とはあべこべだね」と言ったのです。そうしたら「それはあなたは男だからです。女はそうはゆきません」と言うのです。ですから地獄に行きたくない天国に行きたいということと、自分は地獄に行っても人を天国にあげたいということは根本的に違います。ところが実は、人を天国にあげたいと思うような人なら、自分も天国にあがります。それで自分が天国に行きたいという人は、地獄に行くことはないでしょうが、天国の下のほうか中有界ぐらいでしょう。

 

 

【御講話篇10 P327】