玉川郷秋季大祭御講話

昭和一〇年一一月一一日

第一に私が観音運動については、疑いに疑いぬいた。しかしいろんな奇蹟があって判った。私はご多分に漏れず疑い深い性質で、事柄があまりに大きいので、どのくらい疑ったかしらぬ。どうしても、そういう大きいことをやるような気にもなれず、そうかといって、また大丈夫やれるということを、いろんなことによって知らされて、これなら安心というとこまで行ってやり始めたわけであります。

天地が崩れてもできる。邪魔しようとなにしようと大光明世界はできる。そして全世界は統一される。人類始まって以来ない結構なことになる。それが何百年、何千年先のことではない。昭和三年から三十年間という。これでだいたい大光明世界の基礎ができる。私が七十七の時で、早く言えば制規ができる。それから本当の世界になる。ただいまから世界は一歩一歩そうなって行く。そのときはすべてが非常に結構なことになる。みんなが一生懸命になろうとなるまいとできる。ただ一生懸命にならぬと置き去りにされる。代わりはいくらでもある。この人がグズグズすると、この人がするという具合になり、せっかく自分が役になり、結構な使命を言いつけられても、お代わりができる。そうすると永久に取り残されるわけであります。もしか疑われるならば、やってみられるといいのであります。とにかく結構な空前の大事業に携わらせていただく。このくらい幸福なことはないのですから、取り残されぬようにすればいいと思います。観音様は難しい無理なことはおっしゃらぬ。喜んで愉快にできることしかやらされぬ。いままで世界のあらゆる大仕事など、みんな非常に苦心惨憺した。今度の仕事はそうではない。苦心惨憺したらできない。ボンヤリしてブラブラしていてもできぬ。例えば、飯を食うにも茶碗と箸をとるくらいのことはしなければならぬ。それだけの手順は尽くさなければならぬ。病気治しにしても、御祈祷加持で汗水垂らしてやるんですが、観音力では楽にできる。そういうわけですから、その点はたいへんにありがたい。私も観音行を始めてから、ずいぶん苦しんだことをしたが、むしろそのときは結果が悪い。そういうときはむしろ避けたほうがよい。楽にやればよい。どういうことを一番気をつけなければならぬかというと、お祭りや講話会にご無沙汰することがいけない。それをしないと決してうまくゆかない。いざという時に間に合わないからお取り替えになるわけであります。

 

【御講話篇1 P148】