御垂示録28号 ①人から羨まれたり怨まれないようにすること

人間はなんでも人から羨まれたり怨まれたりしないようにすることです。年中苦しんだり困っているということを・・・無理に作らなくてもよいが、そういうように思わしたほうがよいのです。そうして実際において良ければよいのです。ところが人間は、一つの虚栄心のようなものがあって、人によく見せる、間がよいように思わせたがるものですが、結果は逆になるのです。そういうことを始終心に入れておいてやるということがよいのです。だから急に出世したりするのは、一つの羨望やそういうことで悪くなるということは・・・他のいろいろな原因があっても・・・そういう原因が多いです。だからさかんであっても没落したものには、そういう霊の働きが非常にあるのです。いまのことを秀吉と家康と比べてみるとよく分かります。秀吉は百姓の伜があんなに出世をして、関白という最高の位になって、そうして出世したことを大いにおごってやった。それに対して徳川のほうは年中パッとしないで、逃げたり引っ込んだりして目立たないようにしながら、結局天下を取ってしまったのです。徳川のほうがずるいやり方で、秀吉のほうは正直なやり方です。そういうずるさは結構なのです。しかし救世教などもそういうことが大いにあるけれども、その代わりこっちのほうは助かった人の感謝が打ち消してしまうから、よほど少なくなります。また感謝のありがたいという、その霊というのはよい働きをするから、そういったヤッカミり霊や怨みの霊を消す。ところがもっかのところマイナスの霊が多く、感謝のほうが少ないから、どうしても数のほうにおいて負けるのです。悪いほうが一○○とすると感謝のほうは一か二ですから、数において負けるのです。しかしこれからだんだん進むにつれて、他の宗教からこっちに転向するというのが大いに増えてきますから、そうすると他の宗教が非常に怨みます。それが一番注意すべき点です。救世教が本当に救われるということが分かったらみんな転向しますから、そうすると他の宗教はガタガタになってしまいます。「救世教のやつ、新しいくせにして、オレたちのをみんな取ってしまった」というそれがあります。だからその点を目立たないようにしているうちに、いつかこっちが大きくなってしまうというようにしたほうがよいです。それでまた、こっちが手が出せないほど立派になってしまうと、人間は諦めてしまいます。ただそれまでにだんだん発展するという怨みが大きいのです。手をつけてもしようがない、あれは別だというように諦めるというその時までは、できるだけそっとしといたほうがよいです。やっぱり根本は霊ですから、霊の邪魔というのが一番怖いのです。体的の邪魔というのは知れたもので、それだけのもので限度があります。人間という奴は、理屈では分かっているが感情のほうが分からないというのがたくさんあります。それから、人間、理屈どおりにできる人はたいへんな偉い人です。分からない人間は始末がよいのですが、分かっていて分からないという人間が一番始末が悪いです。分かっているのですから。

 

(御講話篇12 p26)