観音運動は当然のことを行なうというのが観音運動の根本

観音運動は当然のことを行なうというのが観音運動の根本で、当然のことを行ないまた行わなければならぬということは、いかに世の中の人が当然のことを行なわなくなってるかということになる。とにかく脱線が多過ぎるというわけになる。このことをしっかり判れば観音行は一番よく判るんであります。よく判るようにいろいろお話しているんで、いままでの世の中のことはだいぶ違う。ともすればいままでの癖が出て観音行にならなくなるというのは、その前に観音運動の根本としては、人間個人をよりよくする、要するに人間らしい人間を造るというわけで、実際今日世の中を見渡して、人間らしい人間は実に少なくなった。見つけるに骨が折れる。それでは一般にたくさんの人間はありますが、だれかの歌に「人の皮着た獣なりけり」というような歌があったが、獣のようではないが、人間よりは以下になっている心や行いになっている。

神が人間を造られた目的は、今日の人間のようなものでなかった。しかしこれも必要があっていままでそういうふうになっていた。で、今度はいよいよ人間らしい人間を造るということになるんであります。それはなにかというと、人間として行なうべきこと考うべきことはちゃんと決まっている。それ以外に脱出しようとするために、いろいろ面倒が起る。病貧争の根本はそこにあるのでありますから、今日の人間はほとんど病人で、どんな方をみても本当に無病息災という人はない。ほとんどが病人で、身体はよくみえても心は本当でない。心と身体とは使うもの。お腹の虫が湧くのはなんのためかと聞く人があって、それはお腹が虫の湧くくらい腐っているからだと答えたのです。これは本当で、人間の身体には虫の湧くべきものではない。虫といっても蛆虫ですが、肚に蛆が湧くほどに肚が汚い、肚が汚いということは心が汚い、心がきれいならば肚に虫の湧く道理はない。では子供はどういうわけかというと、子供は親の分身ですあり枝ですから、枝が悪くなるのは、この根が悪いに決まっている。それくらいに人間が悪くなっている。ですからいつもいう通り、病気治しは血を浄めること、浄化することですから、私はおわい屋と埃とりと兼帯でしてるんで、人間の身体に湧いた塵やおわいをとるのと同じで、これは本当のことで、それほどに汚くなっている。それほど心が汚れてる。その肉体をきれいにし、心をきれいにし立派なものにする。それが観音運動で、肉体をきれいにするのは、健康にすることで、心の間違っているのは、心が病体なんで、心と肉体すなわち霊体を健康にすることはだれもしなかった。(中略)

大きなことは、小さなことで一人一人個人個人よいことをすればよい。良い個人がたくさん寄れば政治なども完全になる。あえて政治などに嘴を入れなくていい。政治は政治家がやる。宗教は霊肉を完全にする。それだけやればいい。ところが人間を完全にするだけの力のある宗教はない。精神が健全なれば、肉体は健全になるに決まっている。行いが当然な行いをし、間違ったことをしなければ健全になるに決まっている。昔から「健全なる精神は健康なる肉体に宿る」と言いますが、これはちょっと疑問がある。ずいぶん大きな仕事をした人でも病体の人がある。有名な正岡子規など肺の初期になって、かえって大作を残した。石川啄木でも病院中で作った歌は実にいい歌がある。ですから「健康な肉体に健全な精神が宿る」と言えば、角力とりなど偉大な立派な精神を持ちそうなものです。しかし、健全な精神なら必ず健全な肉体を持つのは真ですから、根本は健全な精神で、健全な精神を作ることが根本で、あらゆる宗教をみて、病人のない宗教があれば、それは本当の宗教の使命を遂行してるものであります。しかしながら、いかなる宗教の信者も病人のない宗教はない。信者でも信者でない人も、健康状態は同じようなものです。それは力のないことを証明しております。ですから観音運動は宗教改革と医学革命で、だいたいこの二つで世の中はよくなる。政治や経済などは、それは専門家に任せればよい。宗教改革といっても、ルターのようなものでない、もっと大きい。今日はすべて世界的になってるから、世界的のものでなくてはならぬ。(中略)

観音運動の目的はただいまお話した通りでありますが、観音運動の最後の目的たる人間を良くする、当然のことをする人間を造ることは、非常に簡単であってなかなか難しい。なぜかと言えば、いままでのものは、人間が当然のことをしなかったために、どっちかへ脱線する癖がついている。その癖を直すのが観音運動にもなる。観音運動はご承知の通り、観音様はどちらへも片寄らぬお働きをなさる。男でもなく女でもなく、日でも月でも、また火と水のお働きをなさる。火と水両方合したもの、ちょうどお湯で、人間を湯へ入らせるように、いい気持ちにさせる。これは先だって言ったことですが、ちょうど気候で言えば春と秋で、寒からず暑からずという具合です。

これが人間の行いになり、心になればよろしい。どういう行いかというと、どっちへも片寄らぬ、極端にならぬ行いで、いままでの宗教とは、その点が反対なほど違う。いままでの宗教は、非常に熱心になるほど極端になる。狂人じみてくる。狂言になる。そういう信仰になると、外でみるとおかしい。それですから親戚知人から反対され、結局信者だけの付き合いになって、それで神様の思し召しに合っていると思う。ところが観音行は信仰が進むほど、信仰しているのかどうだか判らなくなる。この点が判らぬことで、要するに味噌くさくなくなるわけであります。譬えてみれば、その時とその場合とその相手によって、千変万化し、ちっとも主義とか決めるとかいうものはないのであります。陽気が変わるように、天が晴れたり曇ったりするように、水の流るるごとく少しも拘泥してはいかぬ。

天地の諸の動きの狂ひなきは観音行の鏡なりけり

森羅万象、天地一切、あらゆるものの動きが観音行になっている。これを人間一切の行いにする。そうすれば永遠に栄える。それで人間が決めるところに天地自然の運行に反するから止まる。行き詰まる。ですから観音会はどこまでも栄える。天地一切の生成化育と同じことで、個人がそうなれば必ず栄えて行くにきまっている。その家はどんどんよくなる。天地自然の運行と外れることのないよう始終心掛くれば、だんだんそうなる。そうなるように人間は造られている。そうならないのは間違っている。人と話するにも、ちょうどそのときいい気持ちで聞ける話があり、それを話せば喜んで聞く。先方がまだその気にならないでおれば、時期が来ぬのですから話さない。四人五人と人がいても、その人達や、その場の空気によって言うべきことや、態度とか座り方などちょうどいい所がある。そういうことが判り、自然にそういうように行いができれば、魂の磨けた人で、根本はあくまで平和で行かなければならぬ。観音様は天国ですから、争いがないから、地獄的なことは絶対にいけない。争いなどの場合は観音行とはぜんぜん違う。ですから水浴びたりなどの荒行は観音行ではない。水浴びるのは、魚か亀の子か蛙のすることであります。日光浴などありますが、あれは亀の子のやることで、人間は天日に背を干すべきものではないと私は言っている。養生法でも食物でも、東京人はどういう物を食い、どういうふうに働くかちゃんとだれも決めない法則がある。規則書などにしても駄目なんで、まだまだ複雑な世界に、昨日と今日同じ行いではいけない。自然天然に観音様の守護を受ければ、ちょうどいい行いになる。で、非難もどうすることもできぬ。かえって世の中が狂えば非難されるかしらぬが良いものはどこまでもいい。床の間に置くべきものは床の間に置く。当然のことをするのはわけはないことで、またあるいは今日世の中の人には難しいかもしれませんが、どうしてもそうしなければならないことになってきている。いまははっきり判りませんが、いずれはいままでの考えを持っていると、生存することのできないほどの時期が来ている。そうならなければ世界は本当にならない。物質文化のほうは世界は恒久の平和になっているが、人間の精神のほうは後れている。これを神様は急がれているんであります。個人をみて私は、その方の口のきき方拳動によってもよく判ることがある。その場、その時に合っていることを言う人は、よほど研けた人で、その場に外れてることを言う人がある。観音行に外れていて浄まっていない。

 

【私の信仰の経路より 御講話篇1 P10】