御垂示録21号 ①信仰の極致とは

いつも言うとおり、あせりと無理がいけないのです。この病人を早くなおすと、宣伝にもなるし早く開けるという考えはいけないのです。

それはその人がやるのならそう行きますが、そうではないので神様がやられるのですから、そういう考えでうまく行くことはありません。よく「この人をなおすと、この人は交際の広い人だから早く開ける」ということは人間の考えです。ところがそういうことで開けるということはまずありません。かえって、この人がなおってもなんになるか、というような人がなおってあんがい開けるものです。そういうようで人間の考えを抜くというのはそこのところです。神様の考えは人の考えとはまるっきり違うのですから、たいてい人間の考えとは逆に行くものです。ですからつまりぶつかってきたということは、神様は「助けよ」という思し召しだと考えるのです。こんなつまらない人をなおしてもしようがないではないか、というようなことがありますが、それが将来あんがいな働きをするものです。「この人はこの地方の有力者だから、ぜひなおそう」とするがあんがい駄目です。そういうことが多いです。これを霊的に見ると、神様から見ると名誉のある人というのはつまらない人で、つまらない人と思う人があんがいよい霊です。むしろそういう人のほうが多いです。だからぶつかってきた人は、なおせという思し召しで、フラフラになるのはほったらかしておけという思し召しです。だから病気がスラスラとなおる、また言うとおりのことをする、というのは時節が来て引き寄せられたのです。それから側の人が医者にかかれ、かかれと言うのは、医者にかかったほうがよいのです。そういうのは神様が未信者を使って医者にかからせるのです。神様は信者ばかりを使うのではなくて、未信者も使うのです。いまの場合に、みんなが医者にかかれ、かかれと言うのは、神様がかからせるのだと解釈するのが本当です。「あれは神様を知らないから医者にかかれと言うのだ、なにくそ」と頑張るのはとんでもないことです。そしてこういう分らず屋で、頑張っているから、目にもの見せてくれようとやるのですが、そこが神様と人間の違うところです。そこが大乗と小乗との違いです。だから人間、信仰の極致というのは、右向けと言えば右、左向けと言われれば左を向けるような人こそ信仰の極致です。それを「あいつはああいうことを言う」と頑張っているのは、これはまだ本当に信仰の醍醐味まで行っていないのです。ですから私は女中などが「こうしたほうがよい」とかいろんなことを言うが、私はそのとおりに言うことをきくのです。決して人によって区別したりしません。神様はつまらない者の口をかりて、その人に知らせたりすることがよくあるのです。それからまた邪神が偉い人に憑って迷わせるということもありますから、そこに言うに言われないところがあります。

 

【御講話篇9 P127】