その人の霊力の強いため、撥(は)ね返してしまった例

霊科学

『栄光』235号、昭和28(1953)年11月18日発行

 私は常に霊主体従という事を唱えているが、この事を全人類が知ったなら、ここに文明は一大飛躍となるであろう。ところが現代人は霊の実在を信ぜず、ただ体のみを対象としている以上、言わば外表的間に合わせ文明であるから、いかに進歩したとて、相変らずの地獄世界である。
 この理によって、霊の認識と霊の曇りを解消する事こそ根本である。ではどうすればいいかというと、これこそ常に神の光に浴し霊を浄める事で、これ以外に道はないのである。といっても神にも上中下の階級があり高位の神程光が強い、この点が重要である。そこへゆくと自画自讃ではないが、我救世教の主宰神(しゅさいしん)は今まで出現されたことのない最高最貴の神であるから、信者は常に大いなる光に恵まれ浄められているので、無病健康はもちろん、他人の病気まで治し得るのである。
 また本教信者には驚くべき奇蹟が多いのも光のためであるからで左の御蔭話は物質の霊よりも、その人の霊力の強いため、撥(は)ね返してしまった例である。

    山形県
       T.M

 余りにも偉大なる奇蹟を戴きまるで作り話のように思われますが、事実は事実なのでありのまま御報告させて戴きます。私は昭和二十三年三月一日入信の御許しを戴き、今日まで日々御守護の下に尊き御神業に微力乍ら布教の一端なりと御手伝させて頂いていることは感謝感激に堪えません。
 でき事は去る六月二十八日T支部H支部の月並祭に支部長先生のお供をさせて頂き、午後四時終了致しての帰路、信徒のK君が是非私の家に寄ってくれとの事でしたので、先生と二人で寄らしてもらい午後五時頃のK君の宅を出ました。まだ時間も早いのでN村に自然栽培の指導に廻らして戴こうと近道の白水堤防の上を自転車を飛ばしました。 H町の大通りに出る寸前に差しかかると突然自転車のハンドルが左右に振れたかと思った途端自分の体は自転車より撥ね飛ばされ体は一回転している事が私はよく分っているのです。頭を打つか顔を打つか自分は怪我をすると思った時の恐怖心はとても口や筆では表現できません。併し私の体は土手の草藪の上に横に転がっていました。すぐ起上ることができましたので自転車の側に行って見るとどうでしょう……。自転車は真二つ、前車輪と後車輪は一間も離れているのでございます。よく見ると車体と前車輪の付根が前より傷が入っていて五分位付いていたのが折れてしまったのです。
 あの勢いで走って来てこんなにすっぽり折れたのですが、手も足もかすり傷一つも負わないこの奇蹟! 折れたと同時に体は撥ね飛ばされなかったらどうでしよう……ハンドルに胸を打つのが必然でしょう。撥ね飛ばされても一回転しなかったら顔を打つのが当然です。又土手の草薮に落ちないで道路上にでも落ちようものなら打撲、内出血、又切れて血が出るのが必定です。兎に角かすり傷一つ負わないこの奇蹟は、唯々明主様の計り知れない偉大なる御守護に依って御救い戴いたことを思う時あまりの嬉しさ、有難さにただ感涙に胸が迫ってくるのでございました。
 支部長先生も大変な御守護を戴いたと申されておられました。こわれた自転車を先生の荷のせに積んで自転車屋まで来ましたところ自転車屋さんも驚き「この間矢張りここを折って肋骨二本折った人があった。あなたのようなかすり傷一つ負わない人はおそらくありません」との話でした。
 明主様御守護誠に有難うございました。謹んで御礼申し上げます。