疑う人には出来るだけ奇蹟を見せること

病気と他力

『世界救世教奇蹟集』昭和28(1953)年9月10日発行

本教浄霊を受ける場合、初めから疑ぐり抜く人が多い事は、言うまでもないが、ただ掌を翳したくらいで、病気が治るなんて、そんな馬鹿な事があって堪るもんかと思うので、一人として初めから治るなどとは思わない。たまたま本当に治ったなどと話をすると、それは時期が来たからだ、そんな事で治るくらいなら、医者も薬も要らないじゃないかというのは、決まり文句である。だから実際体験したものでなくては判りようがないのであるから、出来るだけ御蔭話を見せる事で、普通人なら一読なるほどと思うはずである。左記の報告は最もよくそれを裏書している一つの例である。

                     E.K

 某月某日
「この子を一寸預かって下さい」と隣りの内儀さんが、五つになる女の子を置いて行った。又いつもの伝だぜ、私は家内と顔を見合せて笑った。今まで泣いていたらしく、涙と洟で顔に縞が出来ている。「おなかが痛いの」と訊くと「ウン、浄霊して」と言う。今までにも二、三度浄霊して頭痛や腹痛を治したので、病気というと「お隣りの小母さん浄霊して」と来るのだ、子どもは素直だが、親は体裁と負惜しみから、浄霊の良いのを百も承知してい乍ら、浄霊してくれと言う替りに、この子を一寸預かって下さい、と言って置いてゆく。そして浄霊が終った頃を見計らって、「どうも有難う」と子供を受取りに来るのだ。
 余り見え透いたやり方に、腹を立てる事もあるが、子供に罪は無い、と考え直しては神様にお願してお浄めをする。三十分程経った頃、いつもの様にお世話様と子供を連れに来た。おなかに虫がいるらしいから、もう一度連れて来て下さい、と言うと、そのせいで愚図愚図泣いていたのね、すぐ虫下しを買って来ましょう、と当て付けがましい言い方をしながら帰って行った。この隣りの夫婦位ひねくれた奴も珍らしい。家内の脚の悪くなった事、神様に治して戴いた事など、見て知っていながら、治る時期が来た、と言って認めようとはしない。そのくせ、子供の病気の時は子供を預かってくれ、と連れてくる。決してお浄めして下さいとは言わない。家へ来ても光明如来様の御軸には目が向けられず、必ず視線をそらす。神様の話にふれると話を外へそらせて仕舞う。出産を間近に控えた時、痔が悪くなって、夜も睡れない痛みに苦しんだ揚句、病院へ行って手術して貰ったが、その夜もそれ以上の激痛に油汗を流した事があった。化膿し切らない内に切ったせいであろう。この時は、おまじないをして下さい、と言って来たので浄霊すると、二時間程して膿が沢山出て、その夜は心地よく熟睡出来た、と礼を言った。
 お守りを戴いて御守護を願ったら、と勧めると「今度ねー」と曖昧な返事で逃げて仕舞う。商売は上手で阿漕な金儲けもしているらしいが、守銭奴で近所中の憎まれ者になっている。往来で子供が転んでも誰も起してくれる者がない。近所の子供は勿論一緒に遊んでくれないので、私の家へばかり遊びに来る。使用人の交通事故や災難で思わぬところへ金が出てゆく、それでなお更、金が惜しい欲しいの気持が嵩むのだろう。
 信仰すれば、金が家から逃げない、と教えてやるとその手で瞞す気か、と言う。私達が救世教の信者になってから、家の中が明るく、生活も安定して来たのも気に喰わないらしい。この人達には私も全く匙を投げた。一生涯のうち、何時かは神に縋る心持ちになる時もあろう。神の裁きに間に合うかどうか、ただそれだけが気がかりである。(昭和二十六年七月十七日)

【著述篇 補巻3  P585】