京都府 神泉苑

神泉苑の歴史

神泉苑は約1200年前桓武天皇が平安京を造営された際の禁苑です。

平安京創建時より洛中で現存するのは神泉苑と東寺で国指定の最古の史跡だそうです。

また神泉苑は城内における東北隅というのも意味深いですね。

<平安末期>

日本中が日照りとなって鴨川や桂川の川水も絶え、人々が苦しんだ時に、慣例によって百人の高僧が神泉苑の池で仁王経を読んで雨を祈ったが効験がなかった。

次に白拍子を神泉苑に百人集めて後白河法皇の行幸を仰ぎ、99人が舞って雨を祈ったが効験はなかった。

あと一人が舞うくらいで効験があるだろうかという意見もあったが、静御前が舞うとにわかに雨雲が現れ、3日間大雨が降り続いて国土は安穏になった。法皇は感激されて静御前を『日本一』と称された。

源義経は神泉苑で、美しい静御前の舞姿を見そめられた。

「義経記」

神泉苑の由来と伝説】弘法大師空海は天皇より東寺を賜わり、足繫く大内裏に参内されたが、その途次、よくこの神泉苑へ立ち寄られたといわれる。

淳和天皇の天長元年(824)の大旱魃に、西寺の守敏僧都は勅命により祈雨をしたが効験なく、次に勅命は弘法大師にくだった。守敏はこれをねたみ、三千世界の龍神を水瓶に封じ込んだ。

弘法大師は祈雨手法の効験がなく雨が降らぬので、定に入って観じたところ、唯一、北天竺の大雪山の北、無熱地(現在のチベットのマナサロワール湖と比定されている)に住む善女龍王のみが守敏の呪力を逃れているのを見出された。そこで、大師は善女龍王を神泉苑の池に勧請(おまねき)し、和気真綱を勅使として種々の供物をそなえ、請雨法を修せられた。善女龍王は大師の頭上に金色八寸の御姿を現し、慈雲たちまちにして起こり、甘雨の降ることはあたかも天瓢の水を注ぐが如く、旱天(ひでり)の災はたちどころに解消したという。

(神泉苑のしおりより)

本堂 聖観世音菩薩立