天照皇大御神様について

御神事に携わる以前の私は、天照皇大御神様を「太陽神」として、ただその御名を文字で認識するばかりで、実際の御存在を具体的に感じることができませんでした。今思い返せば、ただ形式的に礼拝していただけであり、神様の御心に真摯に向き合うことのない、未熟な在り方であったと深く反省しております。

神社仏閣での御神事に加え、書籍を通じて神様と真摯に向き合う中で、日々の出来事の一つひとつを、神様からの学びとして受け止め、それを現実世界に生かす実践が始まりました。もともと歴史には疎かった私ですが、この二年間の歩みを通して、少しずつですが理解が深まり、かつては曖昧だったことが、次第に輪郭を帯びて見えてくるようになりました。

これまでSNS(X)でもお伝えしてまいりました通り、国常立尊様がクナト大神様であるという確信に至りました。そして今、神様の御神意がこの現界において次々と顕現している様子に、日々大きな驚きと感動を覚えております。長年にわたり積み重ねられてきた御神業の尊さ、そして今までにない新たな御神業に携わらせていただけることに、心より深く感謝申し上げます。

本当に国常立尊様がお出ましになられ、

まさに今、本当の意味での「岩戸開き」をさせていただいていると感じております。

伊勢神宮の御鎮座と霊的背景の考察

伊勢神宮の公式な由緒によれば、天照大御神様は天孫降臨以降、天皇のおそばでお祀りされておりました。しかし第十代・崇神天皇の御代、天皇は畏れ多くも「御殿を共にすることは恐れ多い」とお感じになり、天照大御神様を皇居外のふさわしい場所にお祀りすることを決意されました。

その御神託を受け、皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が大和の笠縫邑に神籬(ひもろぎ)を立て、天照大御神様を奉斎されました。その後、第十一代・垂仁天皇の御代に、皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が神意に従い、さらに永遠に神事を続けていける地を求めて、伊賀・近江・美濃などを巡り、ついに伊勢の地へと至られました。

『日本書紀』には、天照大御神様が次のように仰せられたと記されています。

「この神風の伊勢の国は、遠く常世から波が幾重にもよせては返す国である。都から離れた地であるが、美しい国である。私はこの国に住もうと思う。」

この御神託のもと、倭姫命は五十鈴川の川上に御宮を建立し、天照大御神様はこの地を永遠の御鎮座地とされました。これが現在の伊勢神宮(皇大神宮)の始まりであり、その歴史はおよそ二千年にわたるとされています。

伊勢神宮と素戔嗚尊様の関係

岡田茂吉師(メシヤ様)の御書には、昭和十六年五月に丹波の元伊勢へ、続いて七月には伊勢神宮へ参拝された記録がございます。

そこには、天照皇大御神様が御鎮座される御神事の様子が描かれています。

『伊勢山田の皇大神宮へ参拝に行った。社前に額づき祝詞を奏上するや、社の中から神の声が聞こえた。それは『では私はこれから故郷へ帰らせていただきますから、後はよろしくお願いいたします』という御言葉であった。すると私の傍らに、また別の声がした。『長い間ご苦労であった』との御言葉で、私はハッとした。これは、天照大御神とお留守居神との交代であった。』

この「お留守居の神」は、神素戔嗚尊であり、霊的に見るとそれまでは実は伊勢神宮には素戔嗚尊様が御鎮座なされておられたとのこと。

この霊的事実については、歴史的資料では明かされない領域であり、御書を通じて初めて明らかにされる内容でございます。

元伊勢と出雲伝承との照合

また、「元伊勢内宮 皇大神社」の情報によれば、天照大御神様は奈良県三輪の笠縫村を出発され、京都の元伊勢に四年間御鎮座された後、伊勢へと遷られたと伝えられております。

一方で、出雲口伝には次のような伝承があります。

「幸姫命は、ヤマト国の三輪山にも祀られた。三輪山も丸い形であるので、女神山とされた。麓の狭井神社や狭井川には、もともと幸姫命ゆかりの“幸”の字が使われていたという。」

さらには、

「内宮は出雲の太陽の女神が三輪山を通じて伊勢内宮に鎮座した。外宮は九州の月の神(月読命)が丹波を経由して遷座した。」

この伝承からは、天照大御神様が「出雲の太陽の女神」であったこと、また伊勢という地が三輪山と密接な関係にあることがうかがえます。

こうした霊的・地理的なつながりを照らし合わせていくと、伊勢神宮に祀られている神様の御正体や御由緒が、表層的な神話を超えて、より深い真実へとつながっていくことを感じざるを得ません。

素戔嗚尊様が伊勢に御鎮座された理由

『古事記』によれば、崇神天皇の御代に疫病が流行し、「大物主神をオオタタネコノミコトに祀らせよ」との神託が下りました。これは「神を祀る者はその神の血を受け継ぐ者でなければならない」という霊的原則を示しています。

私の考察では、崇神天皇は速素戔嗚尊様であり、その御子が建速素戔嗚尊=垂仁天皇(イクメ王)であると捉えており、倭姫命による御神事の継承も、この「血を継ぐ者による祀り」という流れと一致いたします。

以上の流れを踏まえますと、素戔嗚尊様が伊勢に御鎮座されていたということが真実であると言えるのです。

岩戸開きと霊的出現

御書にはさらに、以下のような記述がございます。

『今度愈々光明世界になるのは、天照皇大神が出現になられる岩戸開きがあるのであります。

昭和六年六月十五日私が房州日本寺に天照皇大御神を御迎いに大勢の信者さんを御供にして参詣に行ったのであります。

此の時大神様が霊界へ御出現なられたのであります。』

『昭和九年六月十五日、御神命により麹町の日枝神社(山王様)へ三十余名の信者と共に参拝し、天照大神様を御鎮祭。一同で祝詞を奏上した。これは霊的なことなので神官ですら知らないことである。』とございまして、

岡田茂吉師は日本寺で天照皇大神をお迎えされ、3年後に日枝神社に御鎮座なされておられ、当協会の御神事では、日本寺や日枝神社に御出現なされたのは猿田彦命(サルタヒコノミコト)様であることが書籍「神秘の扉」にも明記されております。

徐福と素戔嗚尊の伝承

歴史上、素戔嗚尊様は「徐福」と関連づけられています。

お弟子である先達の平本直子先生の『神言忘備録』の中に、岡田茂吉師(メシヤ様)の御言葉が以下のように記されています。

『三千年前、朝鮮の青年(神スサノオノ命)とシナの青年(ニニギノ命)が、十万の仲間を引き連れて日本に渡来した。萩に上陸した際、当時の天皇(いづのめ神皇)が『言向け合わせるように』と女を使わしたが、交渉は決裂し、争いが起きてしまった。』とございまして、

この「言向け」というのは、出雲口伝では、言葉での説得を「言向け」といい、武力ではなく言葉で支配するという意味であったそうです。

書籍「出雲王国と天皇政権」には、

「徐福は1回目に土井ヶ浜遺跡(山口県)に渡来し、その時は出雲王国軍に攻撃され、徐福たちはシナへ逃げ帰った」とございます。

「いづのめ神皇」とは、上記を照らし合わせますとクナト大神様の一族である出雲族の統治者と一致するわけでございます。

結びにかえて

重要なのは岡田茂吉師の御書は「古事記」での神々様を表しておられますが、もともと「古事記」は出雲王国の歴史を神話化されたものと言われております。

そして岡田茂吉師の御書は、単なる宗教的な書物という枠を超え、真実の歴史的背景を照らす貴重な書物であると私は確信しております。

これから更にまた次なる課題に向かっておりますが、多くの方々に岡田茂吉研究していただけることを心より願っております。

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