観音様について⑵

観音様について①では、観音信仰の始まりについて、そして聖徳太子が饒速日命を観音像として祀ったのが観音信仰の始まりと学ばせていただきました。

そして観音様は、伊都能売大神様であり、国常立尊様、大物主大神様、饒速日命様に繋がりました。そもそも仏教はこちらの神様から生まれたものでございます。御神書は膨大な量でございますのでこれから少しずつ随時アップさせて頂きたいと思います。

『仏教の真髄というものは、伊都能売之大御神様が、御釈迦様に教えられたのが根本で、お釈迦様は檀特山で修行して或程度迄悟ったがそれから先が、どうしても分らなかった処恰もよし、此時印度の南方補陀落山に坐す、南海大士(別名、観自在菩薩)を知ったのである。そこで早速、補陀落山へ登って、南海大士即ち後の観世音菩薩から、深奥なる天地の経綸を聞かされたのであります。此事を、華厳経に斯う出ております。
「南方に、ホダラカと呼ぶ山あり。観自在菩薩在り。時を得て、善財童子(釈迦如来)が遊行して其山の頂に上り、菩薩を尋ねて会う事が出来た。其地は樹木生い茂り、処々に流泉と湿地があり、其中心のいとも軟かき草地の上の金剛宝座に観自在菩薩は結跏趺坐なされ、多くの聖者達に恭敬されながら、大慈悲経を説諭されて居たとあり、其時の侍者として、二十八部衆居り、大弁財天、大梵天王、帝釈天王、金色孔雀王、毘舎門天、阿修羅王等の外、ナーラーヤナ金剛、ワジラバーニ金剛の兄弟二人(仁王尊)等の諸天である。」
又支郡天台の始祖、南岳大師の記に、(昔は霊山会場にあって、妙法蓮華経を説き給い、今は西方浄土に在して阿弥陀仏と名付け奉る。
而も人界普門に示顕しては救世観世音菩薩となり給う。故に過現未にわたる三世の利益は、之観音一体に帰す。)

斯ういう訳で、南岳大師の言う如く、法華経も、実は、観音が最初骨子を説かれたのであって、未来に渉る世界経綸の鍵は、釈尊が七十三歳の時に観音様から秘かに開示せられたのであります。故に、吾七十三歳にして見真実を得たりとの釈尊の言葉は、此事を指したのであります。それが判ったから、正像末、即ち、末法の後が仏滅という事を言われたんで、仏が滅するという事は、観音様から知らされたんであります。

それで、本地垂迹という事は、本の国へ救を垂れるという事で、それは日本から出た神様でありますから、故郷の日本を救わんとされたのであります。然し、霊であられるから、止むを得ず、仏師が拵えた像とか、坊さんの書いた画とか書とかを拝まして救いを垂れ給うたのであります。それで、本当の御姿というと一寸人分の金無垢の御像になっております。黄金は、観音様の御本体であり、又清浄無垢なものであります。』

大光明世界の建設【四】本地垂迹説

日の弥勒たる観音が、二千五百年、秘仏として、隠身的救いを垂れ、阿弥陀釈迦の下位に甘んぜられ給うていたのは、何故であったのか、それは、夜の世界の期間であったからである。物的太陽が地球の陰に在って、月に光を与えつつ、黎明期を待たるるのと同一の理である。故に、今日迄月の阿弥陀が輝いていたのは、夜の世界であったからである。夜の暗さは、悪の活動に便である事を考えたら、今日迄の世界の悪者横行の歴史は解る筈である。今や黎明が来たのだ。太陽が、日の弥勒が出たのである。万界の暗を照破して、世界は、白昼の如くならんとするのである。其光の伝達機関として生れたのが、我観音運動である。五は火であり、日である。六は水であり、 月である。 七は土である。
今日迄、七の弥勒たる、釈迦が説いた仏法を主とし、六の弥勒たる阿弥陀を次とし、五の弥勒たる、観音を、最下位としたのは、七六五の逆の順序であった。釈迦が予言した、五六七の世は、仏滅後となっている。然らば、其仏滅迄が、七六五であって仏滅後が五六七である訳である。故に、七六五は、五六七の逆である。即ち、逆さである。言霊学上、釈迦はサカである。釈迦の名も、此意味から出たのである。
日の国人が土を又月を拝むと言う事は逆である。東から西を拝むと言う事も、同じ理である。然し乍ら、夜の世界であった期間は致し方がない。我日の本人が、外国文化を謳歌し、外国の神仏を讃仰したのも、相応の理であって、止むを得なかったのである。
何の断りもなく、時が来れば、太陽は、東天静かに昇って行く、それは、物質的太陽であるから、誰人も見得るのである、が、霊的太陽は、悲しい哉、眼には視る事が出来ない、然し乍ら、時の力は、世界万民に判らせずにはおかない、誰が否定しようが、遮ぎろうが、物質の太陽は大空高く、昇ってゆく如く、霊的太陽の光は日に輝きを増すのである。何と素晴らしい事ではあろう。何千年間の夜が明けると言うのだ。

茲で、今一つ言わして貰おう、仏教の真髄は真如であると釈尊が言われた、真如とは、真如の月の事である。それは、悟りを得た瞬間、心の空は、皎々たる真如の月が照らす如くだ、と、然るに、其真如の月は、今や、有明の月となって、西山に春き初めたのである。仏教に力が無くなってゆくのはそれなのである。
釈尊は、五六七の世は、五十六億七千万年後だと言ったからとて、呑気に澄ましている仏者がある。考えてもみるがいい、其時から、僅二千五百年経った今日でさえ、是程の娑婆の変り方である。何ぞ、五十六億七千万年後などという想像だも出来ない、遠い世を予言をする必要が、何処にあろうか、之こそ全く、五六七の謎を秘められたのである。

ミロクの真相

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