出雲大社
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日本の歴史としては、下記の出雲観光ガイドをご参照下さい。
https://izumo-kankou.gr.jp/6363
出雲大社の御祭神は大国主大神とされています。
出雲大社は明治時代初期までは杵築大社(きづきたいしゃ)と呼ばれていたそうです。
去年、御神事へ行かせて頂きましたがその時は歴史を調べてはいなかったですので、御神書での素戔嗚尊様の神社としか知りませんでした。
由来では、だいこくさまともいわれ、因幡の白兎のお話が有名だとか。
みなさん司馬遼太郎の「歴史の中の日本」という小説は御存じでしょうか?
書籍はこちら⬇️
研鑽させて頂く中で、この書籍に出会いましたのでご紹介させて頂きたいと思います。
この書籍の初めには、出雲王国の事が書かれており、出雲族の富氏(W氏)と司馬遼太郎さんは親しい仲だということです。
少し抜粋させて頂きますと、
・「高天ガ原」にいた天照大神が皇孫瓊瓊杵尊を葦原の中国に降臨せとめんとし、まず、武甕槌神、経津主神の二神を下界にくだして、大国主命に交渉せしめた。大国主命がナカツクニの帝王だったからである。このころ日本は想像するに、大国主命を首領とする出雲民族の天下だったのであろう。つまりW氏の先祖のものだった。
・出雲民族は、鉄器文明を背景として出雲に巨大な帝国をたて、トヨアシハラノナカツクニを制覇した。そこへ、天孫民族の使者が押しかけてきた。
国を譲れという。最後の談判は出雲の稲佐ノ浜で行われた。出雲民族の屈辱の歴史は、この稲佐ノ浜の屈辱からはじまるのである。
この国譲りののち、天孫民族と出雲王朝との協定は、出雲王は永久に天孫民族の政治にタッチしないということであった。
哀れにも出雲の王族は身柄を大和に移され、三輪山のそばに住んだ。三輪氏の祖がそれである。この奈良県という土地は、もともと、出雲王朝の植民地のようなものであったのだろう。神武天皇が侵入するまでは出雲人が耕作を楽しむ平和な土地であったに相違ない。
滝川政次郎博士によれば、この三輪山を中心に出雲の政庁があったという。
・私は少年時代、母親の実家である奈良県北葛城郡磐城村竹内という山麓の在所ですごした。
・わが奈良県人は、同じ県内なある神武天皇の橿原神宮よりも、三輪山の大神神社を尊崇して、毎月ツイタチ参りというものをする。かれらは、
「オオミワはんは、ジンムさんより先きや」という。かつての先住民族の信仰の記憶を、いまの奈良県人もなおその心の底であたためつづけているのではないか。
・大国主は殺され、ついに「神」として出雲大社に鎮まりかえった。天孫族である天穂日命は、出雲大社の斎主になることによって出雲族を慰撫し、祭神大国主命の代行者という立場で、出雲における占領政治を正当化した。その天穂日命の子孫が、出雲国造となり、同時に連綿として出雲大社の斎主となった。いわば旧出雲王朝の側からいえば、簒奪者の家系が数千年にわたって出雲の支配者になったといえるだろう。
司馬遼太郎さんの書籍に書かれている通り、私も実は奈良県で生まれ育ちましたが、三輪山の神の方が位が高いと昔から言われておりました。
橿原神宮はピンと来ないものがあり、三輪素麺も有名ですし実際行かれると分かりますが、とても神聖な空気感であるのが分かります。
上記の出雲族というのは、岡田茂吉師の御神書でいう大和民族で、天孫族は少し複雑なのですが、御神書でいう出雲族と天孫族という意味で捉えて頂ければ分かりやすいかと思います。
大国主命様が殺された詳細は、書籍紹介②謎の出雲帝国のほうに書いておりますのでご参照下さい。
御神書では、
『出雲は素戔嗚尊の本元で、月の神であるから昼間になるのを嫌ふ訳である。出雲族とて素戔嗚尊の眷属が多い。これは朝鮮系である。』
講話集(補)
出雲朝の出来た時、その前にあった神社を無くそうとした政策をとった事がある。神武天皇が統治した当時、素戔嗚尊以前の神の社を捨ててよくなった。一番古いのは鹿島・香取神社で、その以前のも沢山あったが、殆どなくなった。(S24.12.1)
講話集(補)
❝昔から神無月と申す事が御座いましたが、現在はどの様になっておりますのでございませうか❞
『出雲朝の素戔嗚尊が統治してからズーっと毎年十月朝鮮へ帰る。日の御崎から舟に乗って帰るといふ。之は素戔嗚尊の時代、日の御崎から舟に乗って行ったものと思ふ。それが事の起りである。故に神武以後はさういふ事はない訳である。』
講話集(補)
❝(イ)出雲大社へは昔から勅使の参拝は一度もないとの事で御座いますが、皇室との間に何か理由があるのでしょうか。御伺い申し上げます。❞
❝(ロ)九州の島津家に其の時の当主でなければ見る事の出来ない書物があるとの事ですが、其の内容を世の中へ発表すれば、今迄の歴史は根底から覆されるとの事で御座います。斯様な物が実際に存在するでしょうか。もしあるとすれば、私達が今日迄学んで来た歴史の真偽はどの程度で御座いましょうか。具体的に御教示を御伺い申し上げます。❞
『(イ)大いに理由がある。神武天皇が東夷征伐の時、それまでは出雲朝が統治したのを、統治権を返せというので、天照大神の子孫として名乗り交渉した。最初はうまくゆかず、武甕槌、経津主によって勝った。それで勅使が参拝せぬのである。朝鮮は日本を征服した。十月は神無月といふのは出雲朝で言出した。十月に日之御崎から神がお帰りになるという。一月間。之は朝鮮の神である証拠で、統治した時そういう事になる。』
『(ロ)国土奉還の時と、瓊々杵尊の時が疑わしい。之は根本的の訳がある。之を知ると歴史は、根底から覆る。発表したいが未だ早い。その現われは終戦後日本の戦争はああなり、特権階級は落ちた。斯うなるべき深い理由がある。之は見真実の一部である。信仰が進めば判る。世は変りつつあり、世界がどうなるかも分る。プログラムは出来ている。霊界では相当出来つつあり、五六七世は霊界の中心で出来ている。(いくら邪神が足掻いてももう駄目である)今後は暗示的にいう。(その人の智慧証覚で知るべきである。智慧の啓発が肝要で、そうすれば日本の歴史は分る。)』
御講話集(補)
神武天皇以前の日本は史上明かな如く出雲朝が統治していた。其時の中心は彼の大国主命であって、大国主命は素戔嗚尊の後継者である。素戔嗚尊は朝鮮から渡来し覇権を握ったのである、早くいえば其当時朝鮮が日本を支配した訳である、それがため毎年十月出雲大社の裏手にある日の御﨑から、船で故郷へ帰られ一ヶ月後再び日本へ帰還する事となっていたので、その事は今も大社の神官が説明している-という訳で、十月は須佐王尊が御留守になるから神無月といったのである。
神無月
『茲で最初に戻るが、前述の如く天孫人種が天から天降って高千穂の峰に暫らく屯ろしたという事は、余りに馬鹿馬鹿しい話で、荒唐無稽も甚だしいと言わねばならない。而も神武天皇の父である鵜草葺不合尊の、其又父である天孫瓊瓊杵尊が、伝説の如く天照大神の勅命によって、此国を治めよとの事であるとしたら、之も可笑しな話になる。というのは若しそうだとすれば、それ迄の統治権は天照大神が掌握されていた事になる。すれば天照大神はそれ以前の主権者から受継いだ訳になるが、それ以前の歴史は漠として判らない。今一つは瓊瓊杵尊という御方の出生地も経歴も、又何故主権を譲られたかという理由も、全然不明になっている。尤も天降ったとしたら何をか言わんやであるが、そればかりではない。最初にかいた如く神武天皇以前の日本の統治権を握っていたのは、大国主命であった事は確実であるから、天照大神が瓊瓊杵尊に主権を与えたという事は理屈に合わない話だ。若しそうだとすれば神武天皇は既に統治権を譲り受けている筈であるから、出雲朝に対し国土奉還など要求する必要はない事になる。でなければ何れの日か余程以前に、素蓋鳴尊に統治権を委任されたか又は強奪されたかの何れかで、其点も全然不明である。それに就て最も確実性のあるのは出雲朝の歴史であるから、それをかいてみよう。
私は先年出雲へ参拝の折、同神社の裏手の海岸に日の御崎という処がある。神官の説明にまれば此処から毎年十月初め神様は故郷にお帰りになり、一カ月を経てお戻りになるとの事である。之でみれば出雲の神様は日本生え抜きの神様ではなく、外国から移住された神様に違いない。昔から十月を神無月と言ったのは、右の行事によったものであろう。そうして大国主命の父親は素盡鳴尊になっている。『古事記』によれば素戔嗚尊は、朝鮮の曾戸茂梨山(そしもりやま)へ天降られた事になっているから、朝鮮に生誕された神様である。そうかと思うと伝説にもある通り、出雲国簸の川上に於て、八岐大蛇を退治し櫛稲田姫の生命を救うと共に妻神として迎え、夫婦生活をなさるべく、今日の出雲神社の位置に、須賀官という新居を作られた尊は、新築の家へ初めて入居された時、「あなスガスガし」と仰せられたので、須賀官と名付けられたという説もある。そうして余程琴瑟相和(きんしつあいわ)したと見えて、其気持を表わすべく詠まれたのが、彼の「八雲立つ出雲八重垣つまごめに、八重垣作るその八重垣を」という歌で、之が三十一文字の嚆矢(こうし)という事になっている。としたら和歌の先祖は素戔嗚尊となる。
日本人種の霊的考察(上)
又、単に素戔嗚尊と言っても、三つの神名がある。神素戔嗚尊、速素戔嗚尊、竹速素戔嗚尊であるが、私の考察によれば右の順序の如く、三代続いて次に生れたのが大国主命であろう。茲にに注目すべき事は、出雲神社では古くから今日に至る迄、不消の火と言って、灯明を点け、其灯を移しては取変えて、今日迄決して絶やさないそうである。それを二千年以上続けて来たという事は、何か余程の意味がなくてはならない訳で、考えようによっては、再び復権する日迄血統を絶やすなとの意味かも知れないと想うのである。
之も余談であるが、大国主命に二子があった。長男は事代主命、次男は建御名方命である。処が長男の命は至極温順で、降伏に対しても従順に承服したが、次男の命はどうしても承服せず、敵に反抗した為、追われ追われて、遂に信州諏訪湖の付近に迄逃げ延び、湖に入水して、あえない最後を遂げたという事で、それを祭ったのが、今日の諏訪神社である。
茲で、話は又最初に戻るが、右の数々の史実は、神示によれば斯うである。初め神素戔嗚尊が日本へ 渡来した時、最初に上陸した地点が出雲国であった。処が当時日本の統治権を握っていたのが伊都能売神皇で、此神皇は余程古代からの、日本の真の主権者であったらしい。先ず、大和民族の宗家といってもよかろう。処が大和民族の性格としては、闘争を極端に嫌い平和愛好者なるが為、素蓋鳴尊が武力抗争の態度に出たので、無抵抗主義の為生命の危険を慮(おもんばか)り、海を渡って某国に逃げのびたという事である。それで後に残ったのが御世継である天照天皇と其皇后であったが天皇は、或事情によって崩御されたので、皇后は其大権を継承される事になったが、事態の切迫はやむなく素蓋鳴尊の要求に応じない訳にはゆかなくなり、一種の講和条約を締結したのである。其条件というのは、近江琵琶湖を基点として、西は素戔嗚尊が領有し、東は天照皇后が領有するという事になった。之が『古事記』にある天ノ八洲河原の誓約である。今日琵琶湖の東岸に野洲という村があるが、其処であろうと思う。何故其様な講和条件を作ったかというと、素戔嗚尊が一旦国土平定をしておいて、次の段階に進もうとする予備的前提条件であって、結局日本全土の覇権を握るのが狙いであった。というのは当時と難も一挙にそうするとすれば、国民の声がうるさい。今でいう、輿論が承知しなかったからであろう。そんな訳で、時期を待っていた素戔嗚尊は、機を得て遂に萠芽を表わすに至った。即ち天照皇后に対して、日本の東方の主権をも渡すべく要求すると共に、若し応諾せざれば皇后の生命をも脅かすので、茲に皇后は決意され、潔ぎよく全権を放棄し、僅かの従臣と共に身を以て脱れ、逃避の旅に上ったのである。之を知った尊は、尚も後顧の憂いを断つべく、追及が激しいので、逃れ逃れて遂に信濃国の、今の皆神山に居を定められたのであるが、此処でも未だ安心が出来ず、山深く分け入り、第二の居を定められたのが彼の戸隠山である。
とございまして、出雲は素戔嗚尊様の本元とされています。御祭神は素戔嗚尊様系統の大国主命様と神話ではなっておりますが、司馬遼太郎さんの書籍に書かれている通り、元々は出雲神族である大国主命様が統治していたところに素戔嗚尊様が押し寄せて殺害し、鎮魂の意味で祀り上げられたということです。
歴史を知るまでは、ずっと素戔嗚尊様の子孫の大国主さまと思っていたのに、鎮魂の意味・・?
神話どうりに解釈すると余計に分らなくなりました。
御祭神では大国主大神となっており、出雲族の鎮魂の意味で祀り上げたのなら、御神書での出雲は素戔嗚尊様の本元が嘘になります。
出雲口伝では、素戔嗚尊様と大国主様は無関係なのですから。
どこかの時代で祀り替えられた・・としか考えられませんでした。
振り返ってみますと、書籍に書かれているとおり去年4月25日の御神事では大阪府富田林市の美具久留御魂神社の御祭神は美具久留御魂大神とされ、大国主命荒魂とされていますが御神事ではサルタヒコノミコト様がお出ましになられましたので、その時はどうしてなのか意味が分かりませんでした。
その時は素戔嗚尊様の大国主命様だと思っていたからです。
去年3月21日の椿大神社での御神事では、天照皇大御神様であられる太陽神を示唆されておられたのに、可笑しいなとおもいつつ、何か複雑なことがあったのだと、とにかく御神事が半端ないスピードで進んでおりましたので、出版させて頂いてからゆっくり研鑽させていただこうと思っておりました。
ここがずっと分からなくて時期が来た時に分からせて頂けるだろうと出雲大社のアップがずっと出来ずにいたのですが、最近ふとした動画を目にしまして分からせていただきましたのですが、実は出雲口伝では716年に出雲国造と富氏と共同で出雲大社を創建ということだったらしいのですが、富氏の条件は主祭神を変えないことを条件としていたそうなんですが、鎌倉時代にどうやら一時素戔嗚尊様に御神名が変ったようでした。
これでようやく御神書に書かれた「素戔嗚尊の本元」ということの意味が分かり、有難くアップさせて頂くことが許されました。
昭和の時代ではもちろん、神話の通りにしか話せないご事情もあられたと思いますが、メシヤ様はもうすでに勿論御存じでしょうから
言葉を選んでお話をされたのだと拝察させていただく事ができます。
しかし今になってようやくわかりました。
元々大国主命様は出雲神族で、祖神がサルタヒコノミコト様ですから、あっているわけです。だから美具久留御魂神社にお出ましになられたのです。
また素戔嗚尊様は、神無月に朝鮮へお帰りになられるということですが、出雲では神在月ともいうそうで、他の土地では神様が御留守になられ出雲に神々様が集い神迎祭、神在祭、神等去出祭(からさでさい)があるそうです。
御神事では『九分九厘と一厘』とご垂示を賜わり、出雲大社が何故九分九厘と一厘なのかも分らずでした。
御神事では、金龍様がお出ましになられ、全国の神々様が出雲に集結し、また出雲から各地の神社へお戻りになられるという霊視でございました。
この時は、「どうして神々様が出雲へ集まり全国各地の神社にお戻りになられるんだろう。九分九厘と一厘と仰せになられていたということは、御神事を執り行わせて頂くことによって、いままでの本来の神々様の御力が御発動なされていくと言うことなのか。何か隠されているのでは」と出雲大社は何か複雑な感じが致しました。
金龍様は御神書では、国常立尊様であられ伊都能売大神様でもあられます。
そして、後に出雲が重要だということがわかりましたのが去年の5月14日壱岐で、前日からどうも龍蛇神社が気になり、早朝から龍蛇神社へ御神事に行く際にタクシーの運転手さんが、
「壱岐の神社の神様がこの龍蛇神社に集まって、それから出雲の方へ行かれて、またこの龍蛇神社から其々の神社へお戻りになられるんですよ。」と仰っしゃり、地元しか聞けない内容でしっかりとその御言葉を覚えており、霊視とタクシーの運転手の方が仰ったことが一直線に繋がり真実を確信したのであります。
古事記では壱岐は「天比登都柱(アメノヒトツバシラ)」とも呼ばれ、天地を結ぶ交通路としての役割を担うなど、古来より神々とのゆかりが深い場所として語られており、小さな島ですが神社庁に登録されたものだけでも150を超える数の神社が存在する神々の島とも言われております。
八雲立つ和歌につきましては前回の考察にて元々出雲王国の掟だったということを学ばせて頂き、一夫一婦制の掟であり、それは御神書では国常立之尊様がお決めになられたということですから、出雲王国の王は国常之尊様であられるということになります。これは御神書を読まれておられる方のみしか知ることが出来ない重要な部分でございます。
3000年前に国常立尊様が押し込められたといわれておりまして、丁度歴史を研鑽させていたただきますと、その時代の日本は出雲王国が広範囲に治めていた時代と合致致します。歴史では素戔嗚尊様と大国主命様を親子に例えられておりますが、実際の出雲口伝では、素戔嗚尊様と出雲王国の大国主命様は関係がなく、ましてや敵対していたと書かれておりますので、系譜のすり替えがあることもわかりましたが、そこでまた分かったのが、これも御神書にしか書かれていない部分で、すでにご存じの方は幽界は国常立尊様から大国主命様が主宰されているということの意味を深く解らせて頂けるかと思います。素戔嗚尊様の子孫の大国主命様ではなく、国常立尊様の子孫であられるという事です。
歴史研鑽では、一夫一婦制の掟は出雲王国の掟であり、御神書でもそれは国常立尊が決めたとございますので、出雲王が国常立尊様でその親族が大国主命ですから、御神書の深い意味を解らせて頂けます。
そして、『右の数々の史実は、神示によれば斯うである。初め神素戔嗚尊が日本へ 渡来した時、最初に上陸した地点が出雲国であった。処が当時日本の統治権を握っていたのが伊都能売神皇で、此神皇は余程古代からの、日本の真の主権者であったらしい。先ず、大和民族の宗家といってもよかろう。』と書かれておりますので、伊都能売神とはどなたなのかもうお分かりになられるのではないでしょうか。
出雲大社の東方には「出雲井神社」があり、そこにはクナト大神様が祀られているそうで、
出雲国一之宮は熊野大社で、
現在は素戔嗚尊様が祀られておりますが、こちらも本来の祭神は、クナト神と幸姫命様であられるそうです。
今回は出雲大社についてアップさせて頂きましたが如何でしたでしょうか。
本当の歴史を日本人の私達が後世に伝えて行かなければなりません。
今回も真実を1つ1つ分からせて頂き、神様をお出しさせて頂き大変有難く思います。
まだまだ研鑽は続きますが、この辺で大体のご神事と歴史を繋ぎ合わせて研鑽させて頂きましたので、次回は大弥勒大御神様をお迎え申し上げるまでの内容、御神事をさせて頂く迄の経緯や、世界メシヤ教会にならせて頂くまでの未公開の内容を含め、許される限りアップして参りたいと思います。
神様からの御教導を少しでも実感していただけましたら幸甚です。
どうぞよろしくお願い致します。