「行者なり」と言われた日蓮上人と『夜昼転換』の黎明期
Q. 仏教に関する御教えを縷々(るる)拝読させていただき、非常に勉強になりました。その中で、日蓮上人が「吾は行者なり」と言われた箇所がありましたが、深い意味があるのでしょうか?
A. 日蓮上人については、種々書籍や資料がありますのでそれらを参考にされたら更に良いと思います。ここでは、御教えの下にお答えすることに致します。
私は、学生の頃から『日蓮上人の出現により、夜昼転換の黎明期を迎えた』とする御教えが気にとまりまして、機会あるごとに文献に触れ意味するところを求めて参りました。そうした中で、今触れられた「行者なり」ということが少しずつ推察できるようになりました。
だいたい二つの点からお伝えしたいと思います
仏教改革―「釈迦の精神」を求め続けた
まず、当たり前の表現ですが、日蓮上人は天才でした。12歳で清澄山へ登り、「日本一の智者にならしめ給え」と虚空菩薩へ祈り続け、17歳の折に『聞き届けてやるゆえ励めよ』との啓示を受けたと言われています。
その後、むさぼる如く勉学に励み、短時日にして一切経を網羅したと伝えられていますことは周知の通りです。そして「釈尊の理想はただ一つのはずなのに、導く者の足並みが、八宗十宗に分かれていて、衆生はいっこうに極楽浄土に近づけぬ・・・」という疑問にぶつかります。
また、時代の覇者は荘厳な伽藍を建立し、仏法に帰依する如くに振舞うが、結局はそれは民百姓の難儀を伴い、そしてまた、その覇者の地位を狙って、次々に戦(いくさ)が繰り広げられて、衆生は戦火に焼かれ、血の海に投じられ、その地獄の様相は無限に繰り返されてゆきそうだという懐疑を膨らませたのです。
聖者と仰がれた高僧は為政者と癒着し、無学と堕落によって仏教の本義を忘れてしまっているという、当時の仏教の大きな誤りまで知り得たことになります。
人の世は千変万化し、ある時期は薬師如来としての救済を必要とし、またある時は帝釈天として護法の威力が求められ、大日如来の理と知や阿弥陀如来の希望がなければならない時代もある、しかし、宇宙の絶対的本質を見極めなければ、『空』の意味も解らず、真の衆生済度はない、今こそ仏教の本義に結集し団結すべきで、それが成った時に、初めて地上へ極楽が出現する、という境地に立たれたといわれます。
仏教改革―堕落を防ぎ続けた
次に、「山法師の暴力や、権門に媚(こ)びへつらう高僧」を嘆く俊才成弁(じょうべん)から「お志」を質(ただ)されまして、「釈尊は末法の弟子の力弱さを歯痒く思し召していられることであろう。法華経には、この教を奉じて正しい道を弘めんとする者にはあらゆる迫害があろうと書かれてある・・・」と、胸をえぐられるような詰問があったといわれています。
日蓮上人は、この問答を虚空菩薩の啓示と受け止め、諸宗、和漢の更なる研究に前後7年を費やし、『比叡山の改革のみでは、日本仏教の歪みは正し得ない』との結論を出し、決然と山を降ります。
そして、山を降りるとそのまま伊勢路をとります。伊勢神宮の内宮に詣でたのです。一夜を神前に祈り続けて、安房を目指したことになっています。32歳の時ですが、この「伊勢詣で」については、余り触れられる機会はありません。
しかし、実は重要な意味を有していまして、神道の総本山とも言うべき宮へ参詣し、そこで何を祈ったかはだいたい拝察することができます。仏教を極めたとするならば、日本の神様、つまり伊都能売神皇の教えということを覚るに違いありません。ですから、その本元に祈願したということの意義が生れます。
そして、清澄山々頂にて昇り来る日輪に向かって「仏教改革」に立ち上がる呱々の声を上げられました。それらが『夜昼転換』の黎明になったということです。
日蓮上人は、こうして「仏教改革」に立ち上がるのですが、ご承知のように「受難」の連続でして、最後には、立宗という動きになってまいります。生涯の取り組みの中で、勉学を怠ることなく、堕落することなく、改革者、革命者たり得ようと日々行じていたのだと思われます。
私達は、そうした精神世界を心に留めて、次回から物質文化発展の背景で役割を荷ったキリスト教について御教えを求めてまいりたいと思います。