『逼(は)ってでも来なさい』の項
私達は、自他共に救われてゆきたいと願っております。
相手が救われ、自分も救われてゆく在り方を模索する時、メシヤ様がご在世中に全て身を持って示されていることに気付きます。
そのお姿を鑑として、自らの日常生活にそれを取り入れてゆけば良いのです。この至極簡単なことが判ると、身も心も晴れやかになります。
そのためには、メシヤ様の実像を探究することが必要になります。私達の胸中に実像が鮮明になれば、私達の在り方はより明確になります。
≪本文≫
昭和二十一年五月、私が箱根のご参拝に行って倒れて動けなくなった時、明主様(メシヤ様)から『鳥の家(とりのや―箱根参拝時の信者休憩所)に泊めてやれ』とおっしゃっていただきまして、泊めていただいたんです。
その時の病気は、以前に医者から手を切られた時の症状と同じで、あまりひどいので、お側の人が明主様(メシヤ様)におきき下さったのです。“あの人はどうでしょうか”と、すると明主様(メシヤ様)は、『あれはほんとうはだめだ。しかし、神様の口元(くちもと)の御用をしているから死なせられない。あれが死ぬと私は困る』とおっしゃったそうですが、その当時、お米の御用をわずかにさせていただいておりましたのを、お取上げ下さったんです。
その翌日、『浄霊をしてやるから来い』とおっしゃっていただいたんですが、苦しくて行けないような状態なんです。それで、“うかがえないような状態だ”と申し上げていただいたら、『逼(は)ってでも来い。来なければしてやらん』というお言葉です。
それで、“よし、明主様(メシヤ様)が、来ればしてやるとおっしゃるんだったら行くんだ”と、二、三歩あるいては立ちどまり、二、三歩あるいては立ちどまりして行きまして、ご浄霊をいただきました。その時、『苦しい時はいつでも来い』とおっしゃっていただいて帰りました。
その夜中の二時すぎ、どうしても苦しいから、介抱して下さっている人に頼んで、お願いに行っていただきました。明主様(メシヤ様)から、『すぐ来い』とおっしゃっていただいて、夜中ですが行きましたら、明主様(メシヤ様)は御神体をお書きになっておられましたが、すぐにやめて、私にご浄霊をして下さいました。その時、『おまえ、甘いものをたべたいだろう。ここはなんでもあるんだから、たべたいものを言えよ』とおっしゃって、大きなおまんじゅうを下さいました。その時のうまかったことは忘れられません。
また、寝ているとき、『これをやれ』とご自分のお食事の中から、一品(ひとしな)ずつ抜いてお届け下さるんですが、その時いただいた数々のご慈悲のありがたさは、生涯忘れられません。(布教師)
≪解説≫
羨ましくも素晴しく有り難い言葉の掛け合いですね。臨場感あふれる一文に、胸が熱くなります。
メシヤ様の御心と記述者の取り組みがよく伝わってまいります。その中から私達の信仰生活に何を取り入れたらよいのでしょうか。考えてみましょう。
神様から認めていただけることの幸せ
メシヤ様から『あれはほんとうはだめだ。しかし、神様の口元(くちもと)の御用をしているから死なせられない。あれが死ぬと私は困る』と、仰っていただけることが素晴しいと思います。
どのような形の御用をさせていただくにしても、『あれが死ぬと私は困る』と神様から仰っていただけるような人間にならなければならない、と強く思わされます。また、『神様から信用される人間に』というお言葉も重なって思い出されます。
御教えに『誠が一等』とありますが、記述者は、さぞかし誠のある御用奉仕に取り組まれていたのでしょう。その誠に対して神様が温かい御心を注がれたのだ、と拝察できます。そうしたことを学びとさせていただき、私達も尚一層誠を込めて御神業に取り組ませていただきたいものです。
救いを求める際の姿勢
また、この文章には大変重要なことが含まれております。それは『逼(は)ってでも来い。来なければしてやらん』というお言葉です。
神様に救いを求める際の姿勢は本来そういうものだ、ということをお示しになられた場面であると拝察されます。何事によらず神様に求める際には、私達自身に絶えず問いかけねばならないところです。
「二、三歩あるいては立ちどまり、二、三歩あるいては立ちどまりして行きまして、・・・・・」と記されているように、只ひたすらに何がなんでも求めてゆく、という姿勢が重要なのですね。
この記述者は、後に教団幹部になった程の人ですので、メシヤ様が将来‘人の上に立つ者’の求道の姿勢を強く質(ただ)したのだと拝察できます。私達も道を求める者として肝に銘じておかねばなりません。
救いの手を差し伸べる際の姿勢は
しかし、神様のことを良く認識していない人に救いの手を差し伸べる際は、以上のことを相手に押し付けて良いものではありません。メシヤ様が別の人に対して、身を挺して取り組まれた場面もあるからです。
別項の『もったいなさに土下座してしまう』では、メシヤ様の別のお姿を拝することができます。その項には、ご自身のお子様の具合が悪くなったことを奉仕者の容態と聞き間違えられて、熱海市の清水町から碧雲荘まで奉仕者のために息せき切ってお出でになられたご様子が記述されています。
これは、人を救う際はどこまでも手を差し伸べ、どこまでも自ら汗を流す、という姿勢が大切であることをお示しいただいたものと拝察されます。『逼(は)ってでも来い』と仰られたお姿とは全く異なります。
前者の記述者は将来幹部になられた程の人ですので、求道の姿勢を問いかけられ、後者の奉仕者には身を挺して救いの手を差し伸べられようとされた訳ですね。メシヤ様のお姿は千変万化です。相手に応じて説かれ、相手に応じて行動されていたことが、随所に拝見できます。
私達は、画一的にメシヤ様を拝するのではなく、また、短絡的に御教えを引用するのではなく、‘この場合はこうされた’‘あの場合はああされた’というように多様に対処されたお姿を拝しておかなければなりません。つまりは、冒頭述べましたように、メシヤ様の実像をしっかりと探究せねばならないということです。
因みに、人を救わせていただいたり、お世話をさせていただく際には、「泥をかぶる」という覚悟がなければなりません。人間の弱点の一つに「手柄話をしたい」ということがあります。しかし、それに流されますと本筋から逸(そ)れてしまいます。
私達はメシヤ様から偉大なる御力をいただき、メシヤ様の手足として御神業を担わせていただいているからこそ、結果を許されているのです。これからもメシヤ様の実像を探究し、御姿を範とさせていただいて実践し、着実な足取りで歩ませていただきたいものであります。