『神仏に頼むより人間に頼め』の項
≪本文≫
昭和二十一年一月十八日、初めて明主様(メシヤ様)に御面会いただいた折、忘れられないお言葉をいただきました。
それはどういうことかと申しますと、私は、山口県の天台宗南明寺の寺僧でしたが、二十歳の春から四年間、結核に罹(かか)り、あらゆる医療(いりょう)を試みましたが治らず、自暴自棄(じぼうじき)になっておりました。医療に頼っても治らないため、やはり神仏に縋(すが)る以外に方法はないと、同寺のご本尊、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)作の聖観世音菩薩に願(がん)をかけておりました。それは呪文(じゅもん)を日に二万べんお唱(とな)えするのですが、一週間断食(だんじき)をしながら続けました。そして唱えながらブッ倒れることも何度かありましたが、そんな難行苦行(なんぎょうくぎょう)でも、少しもお蔭をいただくことが出来ませんでした。
そんなさなかに、明主様(メシヤ様)に御面会いただいたのですが、明主様(メシヤ様)は何気(なにげ)なくこうおっしゃいました。『神仏に直接頼むよりか、人間に頼みなさい・・・・・』と。
百雷一時に私の腹中に落ちると申しますか、国宝の観音像の前でひたすらに祈り、断食までやって来たのに、なんの効果もなかったことをチャンとお見通しになられて、『神仏に直接頼むよりか、人間に頼みなさい』と、実に明快な救いの方向づけをして下さり、たったひと言で、その悩みをご解決なさった明主様(メシヤ様)のご神格の現われを、ハッキリとわからせていただけました。 (布教師)
≪解説≫
この文章を読ませていただいた時に、最初に去来したのは「?」ということでした。既成概念で捉えると、信仰生活というものと乖離するように感じたからです。しかし、その後ご論文拝読を進めるうちに、立教時の御教えに出会えたのでした。『大光明世界の建設』(昭和10年7月25日)です。その(四)に『本地垂迹説』の項があり、その中で次のようにお述べになっておられます。
『・・・・・今迄は、木仏とか金仏、或(あるい)は画など、そういうものを通して救いを垂れたんであります。・・・・・所が、段々と世の中が行詰って参りますと、今迄の如(よ)うな、物体を通しては、救の御力が弱いのであります。
それでは何時迄経っても、真(まこと)の地上天国を造る事が出来ないのみならず、人類の悩みが益々激しくなる、それが約束の時期が来た事なのです。生きた人間を通して、直接お救いにならなければならなくなったのであります。』
昭和10年に『約束の時期が来た』と宣せられ、御神業を進められてこられたのです。『約束の時期』とはご経綸上のことでしょうが、「夜の時代」が始まる際のことだろう、と拝察する以外にはありません。
人類の夢にも想わぬ御力
そして、この御教えには『併(しか)し何(いず)れは、人間の夢にも想わぬ、驚くべき、観音力をお出しになるんだそうですが、今は必要だけの力を出されるのだそうです。』とも、付け加えられております。
このことが浄霊法に関する変遷であると拝察されます。当初相手の身体に触れつつ浄霊を取り次いでおりましたが、手を離すようになりました。そして遂には「御守り(おひかり)」さえも必要がなくなったのです。
こうしたことに思いを廻らせると、本来『景仰』を発行した昭和40年12月23日までに整理しなくてはならないことが山ほどあったのです。それがなされていないために人間的な考えが表面化し、本来の御神業よりも組織論が優先されてしまったのです。結局はそうした姿勢に起因して教団紛争が繰り返されることに繋がったのです。愚かなことです。
しかもこうした紛争での被害者は、何時の時代も信者です。また、その事態により御神業が停滞することは、人類にとって甚大な損失になっているのです。『失われた五十年』と申しても良いでしょう。
しかし、『人間の夢にも想わぬ、驚くべき、観音力』は、メシヤ様という最高位のご神格から流れ来る御力となりました。そして、新たなミレニアムを境に「メシヤ様」と祈ることにより誰にでも浄霊力としてお出しいただける時期を迎えたのです。宗教宗派を超えて、あるいは、入信入会を伴わず浄霊力を普遍的に伝授する時代を迎えたのです。
今こそ、メシヤ様の追体験を目指して
この文章の記述者は布教師らしくお言葉をいただいた年月日を明確に記憶されています。「明主様(メシヤ様)のご神格の現われを、ハッキリとわからせていただきました」と述べるからには当然と言えば当然ですが、深く心に刻んで布教に取り組まれたのでしょう。
同時に、この文書を目にした私達にも委ねられたものがあります。メシヤ様と太く霊線で結ばれたお一人おひとりに『神仏に直接頼むよりか、人間に頼みなさい』というお言葉が託されているのです。その一人ひとりだからこそ、メシヤ様を一層求めて、救いの力を行使させていただきたいのです。
そして、メシヤ様を求めるとは、実は追体験することなのだ、という面を再認識していただきたいのです。出会う人、耳に入る人、気になる人に浄霊を取り次がせていただくことは勿論、メシヤ様がご在世中に心掛けられたことを自らも実践し、追体験することを目指していただきたい、と願っています。