『神の大愛』という場合
『それと共に旧文化の中からも役立つべきものは残され、そうでないものは革正して役立つものにされ給うという事である。それが神の大愛である。』と記述されているのです。
『神の大愛』という表現を使用する場合、『旧文化の中から役立つものは残され』、そして『そうでないものは革正して役立つものにされ給う』ということを指すのです。
とかく何でも虚飾して『神の大愛』という言い方をしがちになることもありますが、厳密に捉えさせていただけば人類の文化形態のことを指すのです。ですから、宗教の代表者は宗教の概論と文化形態の変遷を明確に理解しておかねばなりません。そうしなければ、ミスリードを起こしてしまうのです。
ともすると、浄霊の奇蹟が不思議世界の体験に留まってしまったり、単なる神秘世界追求に走る小道具に使われてしまうのです。そんな小さいもの、限定されたものではなく、人類全体の文化に関わることなのです。奇蹟の背景にある御神意を覚り、大道を見失わないようにしなくてはなりません。
そうしたことを、この行間から汲み取っていただきたいのです。
『最後の審判』は何をさすのか
そして、その文章に続いて『それ以外のものは遺憾乍(いかんなが)ら永遠に滅びるより外はない事になろう。之が最後の審判でなくて何であろう。』と述べられているところがズシリとくるところです。
最後の審判とはある日突然来るのではなく、『神の大愛』を知らされた者がギリギリのところまで宣べ伝えることに取り組んで、尚且つ『それ以外』になったものが永遠に滅びる、ということなのです。
ですから、私達の御神業というものは、ギリギリのところまで宣べ伝える取り組みを指すのです。ギリギリのところまで取り組んで、なおもまだ革正しないものが滅びるのです。
また、このことが認識できていなければ、“裁かれる”というようなニュアンスを刷り込み『脅迫信仰』を形成したり、カルト化へ走ってしまう危険性があります。
そうしたことを踏まえて、『実に有り難くもあり、恐るべきでもある。』とのお言葉を真摯な姿勢で受け止めねばなりません。