御教え集6号 ④座右の銘にしてほしい。伊都能売の働きを
それから、いのお話しようと思うのは、だいたい今年には変わりないが、今年から特に、信者の人は、方針といっては変だが、いままで知ってはいながら、どうも実行し得ない点ですね。その二、三のことを、今年の座右の銘とでもして聞いてもらいたい。いつも言う通り伊都能売ですね。伊都能売の働きにならなければいけない。ということは、つまり大乗と小乗・・・大乗が緯で、小乗が経ですからね。それを結んだ真ん中が伊都能売だと、始終言ってますが、ところがどうしても、大乗になったり小乗になったり、片っ方にずれちゃうんですね。結ばない。結べないんですね。そういう人がたくさんある。これが根本なんですよ。メシヤ教の意味というのは。そこにあるんです。いままでの宗教は、みんな・・・経か緯なんです。どっちかです。結んだものは一つもない。結んだ宗教はないんですからね。これは宗教に限らず、みんなそうです。
いまの米、ソの問題もそうです。ソ連は経で、アメリカが緯で、これはいずれは結ぶんですが、いまは結ばないで、両方が極端な考えでやってますから、そのために多くの人類が犠牲にならなければならない。そういうわけなんです。で、経と緯を結ばないと極端に行っちゃうんです。その点がいけないんです。それについて・・・今朝も「おぞうに」を食べるとき、モチがブツブツで、装うと一つのおモチが、五つにも六つにも分離している。まとまっていない。なぜかと言うと、明主様が良く春いたのがお嫌いだから、なるたけザクザクにしたほうが良いというので、春かなすぎちゃった。だから私は言ったんです。このおモチは明日からお茶漬けに食べると言った。みんな分離してしまうんですからね。お茶漬けにちょうど良いんですよ。これも極端なんですよ。私は、あんまり良く春かないのを好きですからね。そうするのを、あんまり極端にやっちゃった。それから、明主様は歯がお悪いから、薄いほうが良いというので、こんなに薄くしちゃった。だからよけいザクザクです。お前たちもそうかと言たら、いいえ違います。見たところ・・・自分たちは、こんなに厚いのを食べている。春き直しましょうか、と言うから、元旦早々春く奴が・・・と言った。明日から、お前たちの食べるモチを食べさせてくれと言った。つまり、これが極端なんです。で、これがやはり伊都能売でないんですね。
だから、すべての問題について、やはり経緯結ぶ・・・ちょうど真ん中ですね。それに行かなければならないですね。ところが世の中のことを見ると、どうしても結びの所にいかないんです。この間も、ラジオの政治問題ですね。自由党、民主党、社会党のね。その幹部の人が、みんな、自分の党についての披露やなにかしゃべりましたが、これを良く見ると、やはりどっちかなんです。ちょうど良い所になってないですね。だいたい、資本主義とか社会主義とか言うことが、違うんですからね。資本主義でもいけなければ、社会主義でもいけない。またどっちもなくてはいけない。そこの・・・なんでもないようなことで、ちょっと難しいんですが、難しいということは、いままで偏ったことの癖がついてますからね・・・人間は、そこで、両方混ぜるということが、非常に難しく考えるんです。実はやさしいんです。ですから、私はいつでも、お菜を食べるときに、甘いか辛いか・・・どっちか多いんです。そこで、いつも教えるんですがね。甘からず辛からず・・・中くらいの味が良いんだ。なかなか難しいですねと言う。いや難しくないんだ。私などから言えば、非常にやさしいんだ。良く言うですね。どうも、実に陽気が悪い。なぜといって、寒いような暖かいような・・・どっちにして良いか解らない、と。しかしそれが一番良いんじゃないか。つまり、そういう・・・いままでの人間の思想ですね。あるいは習慣とか、すべてそういうものに、みんな慣れないから、どっちかに偏っちゃうんですね。ですから、信仰も片っ方は馬鹿に窮屈な、まっすぐな信仰ですね。たいへん良いようですけれども、そうかといって、片っ方は馬鹿に融通がきいて楽そうで、どうも・・・あれで信仰は良いものかしら、あれで信者かしらなんて言う人がありますから、やっぱり両方偏るんです。そこのうまい調和ですね。そういうふうな一つの修行ですね。いままでの修行というのは、恐ろしく骨の折れる、苦しいのが修行と思っているが、これはそうではない。
かえって楽になる修行ですね。やり良くなる修行ですね。
そういうことは、一番肝腎なこととして、その修行をやられたいと思うんですね。それから、すべての信仰的考え方ですけれども、やっぱりいまと同じように、自分も良し人も良し、人も良し自分も良し、というのでなければいけないですね。よく、戦争自分なんかも、滅私奉公なんて言いましたが、あれはいけない。極端ですね。滅私というのは、自分を滅すというんだからね。自分がなくなっちゃ、奉公なんかできない。しかしあれは、私を滅するという・・・私利私欲をなくすると言うんでしょうが、これもやはり極端です。だから、伊都能売式に言えば、人も良し自分も良し・・・これでなければ続くものではない。自分だけは犠牲になって人は良い、ということはいけないし、人を押しつぶしても自分が良く、ということもいけないですね。両方が良くなければならない。
そんなうまいことができるかと言うが、できるんです。
むしろ、自分が良ければ人も良い、というのができやすいんです。いままでは知らなかったんですね。大本教のお筆先にこういうことがあった「人良かれの信心でないと、神の気持ちにかなわぬぞ」人良かれ・・・これはうまい言葉ですね。それから「今の世は、自分さえ良ければ人は何うでも良いと言うむごい心になり居るから・・・」とある。ですから、大本教では「我良し信心」というのがありますね。これは勿論いけないですね。私の『信仰雑話』にある通り、自分が幸福になりたれば、人を幸福にする。どこまでも愛ですね。他人を幸福にするという・・・これが欠けてはいけない。これが伊都能売になる。自分を捨てて人ばかり良くするというのも極端で、自分さえ良ければ、人をぶっつぶしても良いという・・・これも極端です。それから・・・今日はお説教じみたことが多いですけれど、邪神ですね・・・邪神がなかなか活躍しているんですよ。この間も言った通り、邪神というものは、信者を一番目掛けている。ところが信者は、自分は神様の御守護があるから・・・邪神は信者でない者に憑いて、そうして邪魔すると・・・こういうふうに思いがちなんです。そういうことはあるにはありますが、ところがそういう邪神は、ごく弱い邪神なんです。邪神のほうのへっぽこですね。ところが邪神のほうで、力・・・腕のあるやつは、信者に憑るんです。これが怖いんです。それで・・・憑っても、決して悪い意味じゃない。信者ですから、間違ったことや悪いことを考えることはしない。「これが良い。こうするのがお道のためになる」と思わせるという・・・これが怖いんです。そうすると、教団のためになると、その人が思ってやるが、それが知らず知らず、教団のお邪魔になったり、不利益になったりすることが良くある。ですから、邪神を気をつけるのは自分ですよ。自分のやり方は、邪神にやられているんじゃないかと、審神するんですね。そいつは大いに必要です。ですから、そういう場合に、よく・・・こうしたほうが良いか、ああしたほうが良いかと迷うときがあるが、そういうときは大乗で見ていくんですね。教団全体から見てどうかと、ところがどうも・・・人間というものは、自分たちの会なら会を盛大にしようというんですがね。それは大いに結構ですがね。そのくらい自信を・・・優越心がなくてはいけないですがそのために他の教会なら教会に影響させて、自分が良くなろうという・・・この点がいけない。ですから、自分の会も良くし・・・他の会も良くなるというような意味から言えば結構ですが、そういうときに、ちょっと自分を審神するんですね。自己批判ですね。難しいことはない。じき解る。そういうときを狙って、邪神がよくやりますからね。だから、その点を改心するんですね。
【御講話6 P335】