御垂示録5号 ②自然農法の落葉や枯葉は自然である。藁はいけない。
(お伺い)
島根県D村で、青年団の主催で、農作物の品評会があり、一つは初年度、二つは二年度で特賞品に入りました。そのとき、明主様の御論文や松井先生の書かれたものを二〇〇部持って行っておりましたが、ほとんど出ました。
『それはおもしろいね。さっきの、農業をかいてある・・・土の精分ですね。土全部が肥料だということを、大いに話するんですね。今日の自然農法というのはね・・・落葉や枯葉は自然だ・・・つまり神様ですね。そういうことを大いに強調するんですね。だから、固まらない土だったら、土ばかりで良いですよ。なにも不純物を混ぜてなかったら、とても良く穫れるんですよ。米なんか、いまの倍くらい穫れます。土の本来の力を発揮するからね。ちょうど、人間が薬を服まないようなものです。』
(お伺い)
その場合、堆肥は必要がなくなるのでございましょうか。
『固まらなければね。土自体の性質もありますからね。赤土なんかね・・・ああいうのは固まらないまで、堆肥を使わなければならない。』
(お伺い)
畑のほうは草の落葉で。
『そうです』
(お伺い)
下のほうに入れますので、あるいは混ぜますのでしょうか。
『混ぜる必要はないですね。葉にもよりますがね。松葉みたいなものは、杉だとか・・・針葉樹のようなものは、土に混ぜて良いですが、葉の類は筋がありますからね。あれが腐るまで大事ですからね。葉は床に入れると書いてあるでしょう。しかし、土に混ぜても良いですよ。臨機応変ですね。』
(お伺い)
畑に、草のほうと藁を切り込んだのとやってみましたが。
『藁は米ですよ。』
(お伺い)
畑の藁は。
『藁は畑に入れちゃいけませんよ。理屈に外れている。藁はどこまでも米です。』
(お伺い)
麦に藁は。
『藁はいけないです。畑のものは、すべて落葉と草です。』
(お伺い)
畑の場合に、付近に落葉も草もございません場合に、麦の藁を使用することは。
『いけませんね。麦は固いものですね。長く置いて腐れたものは良いが・・・そうとう長くね。取りに行けば良い。不精するからです。一里や二里行けばありますよ。草を・・・雑草を生えさせるために土地をあけておいても良いじゃないか。どんな所でも・・・種を蒔かなくても生えます。サツマイモは大きいので目方はどのくらいがふつうですか。』
(お伺い)
だいたい二〇〇匁から五〇〇匁というところで、みんな丸く・・・フットボールのようでございます。
『有肥料でも、そのくらいのができますか。』
(お伺い)
できません。
『そうでしょう。とにかく、無肥のほうは、大きいのができるんですね。この間大きいので五五〇匁かあった。だから、サツマイモも無肥でやっていくと丸くなります。長細いものはだんだん少なくなって、だんだん丸くなります。ジャガイモみたいになる。』
(お伺い)
保存が非常にききます。
『ききますよ。米でも野菜でも、肥料がなければ・・・神様がそういうように作ってある・・・保存がきくように作ってある。』
(お伺い)
藁を堆肥にする場合、土と草と藁を交互に置き、下肥とか風呂の水を使いますが、そういうのをかけないで腐らせたほうは。
『それが堆肥ですよ。クソをぶっかけるのは堆肥じゃないですよ。だから、否かの人はクソをぶっかけるのが堆肥と思っている。どうも良くできないというのを聞いてみると、クソをぶっかけている。だから、できるだけ清浄にとあるでしょう。馬のクソとかやるが、なにもやらない・・・純粋のだと、とても良い。考えがあべこべなんです。肥料迷信ですね。クソをぶっかけたり・・・いろいろしなければ、物ができないような・・・そんなくだらない土ですね。そんなつまらない土に、神様が作るわけがない。薬を入れるほうが丈夫というようなね。たいへんな迷信です。ぜんぜん頭がひっくり返っている。切り替えどころじない。よく、肥料は何貫目入れたとか言って・・・堆肥が肥料になって、それで良くできると思っているが、あれがたいへんなものです。土をたいへんに軽く見ている。土を軽蔑するんですよ。神様が作ったものだから・・・人間の分際で、神様を軽蔑するようなもので、神様に対する反逆です。神様の作ったものは尊ばなければ・・・感謝しなければね。』
【御講話篇4 P359】