天国的生活
天国的生活の第一歩
<質問者> メシヤ教にご縁をいただいてから、最近ではベランダで洗濯物を干す時など遠くに見える山に眼が行くようになりました。今まで仕事や、家事等々に追われて景色を見逃していました・・・。
メシヤの教えに『本来信仰の理想とする処は常に安心の境地にあり、生活を楽しみ、歓喜に浸るというのでなければならない。花鳥風月も、百鳥の声も、山水の美も、悉(みな)神が自分を慰めて下さるものであるように思われ、衣食住も深き恵みと感謝され、人間は固より鳥獣虫魚草木の末に到るまで親しみを感ずるようになる。これが法悦の境地であって、何事も人事を尽くして後は神仏にお任せするという心境にならなければならないのである。』とありますが、少し近づきましたかね。この教えは、暗記できるまで毎日読み、心掛けていきたい内容ですね。
最近はアウトドア-ブ-ムですが、人工的な灯かりの無い所で夜空を見上げますと、天の川が手に届くように見えます。天の川は、銀河系の中心の方角を見た時の景色だそうですね。ご承知のように、私達の住む太陽系が所属する銀河系は200億個の光星の集まりで、直径10万光年という壮大なものです。また、宇宙には1000億以上の銀河が存在すると言われています。宇宙は、人間の思考を遥かに超えた大きさですね。しかも、光の速度で拡大しています。私たちが宇宙の事を話している間にも、光の速度で大きい存在に変化しているのですね。その中に奇蹟的に生命が宿る地球がある。そして恙無(つつがな)く運行されています。自ずと感謝の念が湧いてきますね。
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出家と精神の後退の関連
・信仰は 真の智慧なり証覚(さとり)なり 証覚なくして感謝うまれず
<質問者> 先月、出家すると精神の後退を招くというようなお話を伺ったのですが、よく解りません。
あのことですか。出家しないと救われない、という在り方のことを言ったのです。「ほんまもん」に出てくる庵主さまのような方は別ですよ(笑い)。世人に道を教え、癒しを与えるために日々修行に励んでいる訳ですからね。段々と精進料理の極意が出てくるのでしょうから楽しみですね。‘食材の命をいただくから、その持ち味を生かしきる。そのために日々修行を積む。そして、命をいただくからには全て使い切る。無駄にしない。何よりも大切なことは、命をいただくという心、つまり感謝の心です・・・・・’そうした台詞を吟味すると良いですよ。
先日、若い主婦から「何を頼りに生きたらよいのでしょうか?」という質問を受けました。私の答えは次のようなものでした。人間は、生まれたばかりは全て依存していかねば1日たりとも生きていけません。食べることも、移動することも、親を頼りとしなくてはできません。親はあらゆる世話をしますね。しかし、成長するに従って世話をすることが変化していきます。身体的な世話から精神的な世話へと移行します。やがて親離れして、一切頼らなくても生きていけるようになります。
ところが、それは錯覚で、頼りとすることはかえって増えていくのです。社会へ出て行けば、自覚するしないに関わらず、他の人にやっていただかねばいけない事が加速度的に増えていきます。受験というものを考えてみても、先ず受ける先方の大学それ自体の運営にどれほどの人が関わっているかですね。また願書を出すにも、先ず願書を作った人々、印刷した人々、願書に記入するにしても筆記用具を作成した人々、印鑑を作った人々、郵送に携わる人々・・・1日かかってしまいますからこれ位にしておきましょう。実力を試すと言ったって、他の受験生がいなければ実力も何もない。自分ひとりでは何も成り立たないのです。
またそれ以前に、空気だって吸わないと生きていけない。つまり、生きること自体があらゆるものに頼っているということなのです。空気については以前も話しましたね。酸素の濃度はどのようにして一定に保たれているのか。海水の塩分の濃度はどのような仕組みで一定に保たれているのか。そのような事を一つひとつ認識していくことが、成長するということです。そして認識すればするほど、自然に感謝の念が湧いてくるものです。メシヤは『信仰は 真の智慧なり証覚(さとり)なり 証覚なくして感謝うまれず』と詠んでいます。日々の学びが無いと、感謝というものは生まれないし、感謝の心を持てない人は、勉強不足の哀れな人ということになりますね。
そういう意味では、霊能者なども学習を怠ると、ダメなようですね。霊能者の欠かしてはならないことは、3つほどあります。
・ 幅広く学習する
・ 人と関わって体験を積み重ねる
・ 人格を磨く
の三つです。私達も気をつけましょうね。皆さんは、その辺の霊能者よりもず-っと奇蹟を現わせるのですよ(笑い)。この三つを怠ると、奇蹟はどうなるか・・・。先程の話ですが、社会に身を置いてあらゆるものを認識していく事こそ、精神の進化です。その先に、実在の神を認識できる道があるのです。
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名作・三題
1.映画「千と千尋の神隠し」
<質問者> 「千と千尋の神隠し」を鑑賞しましたが、美しい心の内面を描き出した作品で、感動しました。目の前の見える金、物、全てを自分のものにしたいと求め続け、それでも満足感を得ない生活、分相応以上のものも必要だと思ってきた自分を反省しました。
作者の宮崎駿さんのことを、世人に語り掛けをする数少ない思想家の一人、と評する記事を読んだことがあります。ご本人は、‘映画を見た子供たちが大人になっても、また見たくなるような作品を作りたい’というような意味のコメントをしていたと思います。
宗教が教えていく事や、家庭で躾けていく事を、なんとなく伝えているところが非常に良いですね。説教臭くないが、見ている人に考えさせるところがあって見事な作品ですね。私が見た映画館では、エンディングになっても誰も立ち上がりませんでした。これは、今年の驚いた出来事の一つでした。
人は、他の人のために生きる時、生きる価値を見い出し、生き甲斐を持つことができます。そして、力も発揮できます。映画に登場する千尋は、ろくに挨拶もできず、懶(ものぐさ)な子供として登場しますが、不思議の国で豚にされた両親のために奮闘し始めます。千と名を変えさせられた千尋は、涙を流し、汗を流し、知恵を出し、誠意を尽くします。勿論様々な助けもあり、徐々に人としての特性が表面に出て、輝いてきます。これを育てるということだと誰もが気付いたことでしょう。
それから、アニメだから上手に表現できたところと、少々不満に感ずる描写もありました。『人間には、最大の自由が与えられている』というメシヤの教えを確認しておきたいと思います。登場している諸善仏神、天魔羅刹は、確かに様々な法力や能力を持っていますが、自由は制限されています。よくよく見つめると、そうなのです。一方、人間は、それらから様々な影響を受ける弱い存在のように見えますが、人生の歩み方の選択は人間の自由なのです。そこにこそ人間に最大の自由が与えられている、とメシヤは教えられています。
メシヤは、『天国を 作るも地獄を作るのも 心のままなり人とふものは』とも詠まれています。天国を作るのも、地獄を作るのも、人間の自由なんだよ、ということですね。これは個人から、家庭、国家、世界に至るまで全てに当てはまります。ですから、神の名の下に戦争をする事も、先祖に原因を求めて努力しない事も、全ては責任転嫁に外なりません。その意味から、真善美完き恒久平和の理想世界実現、つまりは天国を作る事への決意を強くもって、行動していかねばなりませんね。そして、私達の日常においては責任転嫁をしない生き方をしなくてはなりませんし、子育てもこうした事を肚において取り組まねばなりません。
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「メシヤ講座」の眼目は教・論・律
その一環として「メシヤ講座」を開催しているのですが、この講座の眼目は教・論・律です。教とはメシヤの教えですね。論とは、その教えを基にして世の中を観て、どう解釈するかということです。律は、解釈をした上でどのように生きていくかということを求め、生活していくことです。
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そこで、今年の課題としてもらいたい教えとして提示した『神格をいただく道』が重要な意味をもってくるのですね。生活の中に降ろして考えてもらいたいのです。どの項目が自分に欠けているか。それが課題となるのです。朝起きてから夜眠るまでの自分の心言行を顧みると、‘まずこれからだな’ということが見えてきます。
『人事百般完全は望むべくもないが、一歩一歩その理想に近づく努力こそ、人として最尊最貴のものであり、斯(かく)の如き人間こそ生甲斐ある真の幸福者と言うべきである。』とありますから、一歩一歩コツコツ取り組むことが大切ですね。また、その姿をメシヤ様はご覧になっています。」
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‘自分づくり’について
― 先月、問題解決の鍵は‘自分づくり’にあるというお話をお聞き致しました。大切なことと受け止めさせていただきました。実際どのようなことに留意したらよいのでしょうか?
「問題というのは出発点に原因がある場合が比較的に多いですね。見切り発車的に物事をスタ-トさせてしまう。次は、途中で‘このままではいけない’と気付いてもそのままにしてしまう、という優柔不断さですね。決断力の弱さですね。ですから、問題の起こったと見られる出発点に戻って、そこからやり直さねばなりません。
それからもう一つ、自分の精神の癖ですね。優柔不断さや決断力の弱さもそれに当たるでしょう。この精神の癖が絶えず問題を引き起こす場合があります。
問題の出発点などは、自分で考えたり、有識者に相談すれば次第に解りますし、対応策も解ってきます。解ったことから取り組んでいけば解決へ向かいます。ただ取り組みを継続できるかどうかということが肝腎なことです。人間の心の弱さが継続を阻むことが多いですね。弱さを克服する時に力をくださるのが神様です。そこで信仰が必要になるのです。
また、神様は正しい祈りは叶えてくださいますが、正しい祈りかどうか、ということが問題ですね。神様のご意図というものは、奥があり、そのまた奥に奥がある、ということですから(笑い)大変なのです。やはり『成長させてやろう』という愛があるのですね。成長するために取り組まねばならないことの代表例は以前にもお話しましたが、‘依存性’と‘幼児性’を取るということです。
こうしたことを考える時に精神の癖というものが課題になってくるのですね。これもジッと自分を見つめていますと、解ってくるのです。しかし直すに直し難いものなのです。何故かと言いますと、精神の癖とは無意識で物事や出来事に反応するものだからです。無意識だからこそ中々難しい。詳しくは信仰読本を読んでいただくと解ります。
突き詰めて考えて、課題を明確にしてコツコツ取り組んで行くことで直していくことができます。様々な宗教が行う修行というのは、本来そのことが目的なのですが、勘違いをして修行を捉えているところが多いのが実情ですね。」
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