メ-ル交換④

 Q.  前略

早々のご対応に感謝申し上げます。

>未体験者用の「浄霊」に加え、発足時に於ける信者向けの「信仰読本」を同封致しました。

ありがとうございます。届くのを楽しみにしております。些細なことをお聞きして恐縮ですが、信仰読本についてはあらためて必要な金額を教えて下さい。

メ-ルを読ませて頂き、お会いできることがより楽しみになりました。(中略)

ここ2~3ヶ月の間に最低限必要な情報にぶつからせて頂き、救世教から離脱した教団のそれぞれの離脱時期、離脱した背景、概要を知ることができました。その中で、世界救世教の包括3法人中2法人も含めて教団一元化時に明主様の御教えに忠実たらんとして離脱された、という方々の現状の確認を自分なりにはじめました。

しかし、実際のところは教団の内部深く入って中心に触れなければわかるものではありません。できることは、活動内容と活動拠点の所在確認、新しい信者さん、古い信者さん、教師、支部長、教会長さんから直接、又はメ-ルで伺った話を総合して実態を推察するしかありませんでした。

それでも、救世教自体、2代様の時代に祭式変更からご神体の問題、善言讃詞の改変、著作権の争いなどなど、があったことを私はこの確認作業においてはじめて知り愕然としました。

秀明、天聖真美会、では一般信者さんが相当苦しまれた末、悩みに悩んで離脱した人々、それでも残っている人々の書き残したHPを目にする機会を頂きました。あろうことか御神書の改竄、役員、教会長、支部長の様が御教えから逸脱、迷走している様相が目に浮かび、苦しむ信者さんの気持ちが移ってくるようで大変苦しくなりました。

これも必要があって主神様が存在を許されておられるのでしょうが、同時に大変お悲しみになられているような気がして、何とかならないものか、と感じます。

とは言うものの、私達一個人は大きすぎることに頭悩ますより、今日一日自分の役割を精一杯全うすること、これに尽きるとも思います。

他者の影響を受けても道に迷わない芯を持ち、自身の役割を自覚し、誰が見ずとも言われずともそれを全うできる、そんな自立した人の育ちをお手伝いするのが世話人であり、私の役割は今の段階はそれに尽きるのではないかと思っています。

教団に悩み持たず、役割を全うできる日を願ってやみません。(中略)

では、信仰読本が届き次第拝読させて頂いて、その後、あらためてご連絡させて頂きます。よろしくお願い致します。
<2005.2.22・11:36>

返信メ-ル  「追伸」

A.  前略。

本を読まれてから、改めてご連絡くださる、とのことでしたが、メ-ル内容とご自身のご心痛を推察すると、時間のあるときに少しでもお伝えして行こうと思います。

明主様教団の内紛をはじめとする問題、お世話内容の不備における根本的なことです。

私は、幾つかの問題点を絶えず心にもって御神業に臨ませていただいてまいりました。そのひとつは、「観音講座」の解釈です。私が出会った先達の中で、その内容を明確に理解している方はおりませんでした。立教時の講座ですので、「立教の精神」そのもののはずです。どなたに質問をしても、すりかえられてきました。

独学でしか理解する術はなく、『大和民族の宗家にあたる神様がお創りになられた祝詞』という表現がありますが、当時は現在使用している漢字や平仮名はなく、どのような文字で残してこられたのか?という疑問から始まりました。勿論口伝が主流であった訳ですが、特定の地位の方々が使用を許されていた文字があったことは何時しか知るに至りました。

神代文字と表現する人もいますが、それを知らずして「言霊」のことは理解できません。これについては、過去のメシヤ講座で少し触れてきました。今後、周知すべき内容です。時代は進んでおりますので、漢字や平仮名はその過程で発展的に生み出されたものとして、今後も使用しますが、言霊については源を知らねばならないと思います。

そして、ご出現された神様方のお働きなど拝察することは、更に困難であろうと思います。

次に、昭和30年の祭式変更は、大本教の影響です。二代様が大本教へ相談された由のようです。また、それ以前に「二代教主」が必要であったのか、意見の分かれるところです。二代様のご人格は言うに及ばず素晴しいの一言ですが、「教主」を巡る問題が重なっております。秀明は、三代教主様の要請で離脱しておりますし、救世神教も関連していると言われております。

大本教へ相談されたという時点で、明主様のご神格を理解されていなかったとしか推察できません。

また、ご法難の背景を知れば知るほど、当時の高弟と言われた方々がご神格を理解されていなかったとしか、考えられません。もっとも、邪神界の介入として片付ければすべてに当てはまるのですが・・・。『抜き身の中にいると思え』と御教えされていますから、当然そうした事もあるでしょう。明主様ご自身が、闘っておられたのですから。

このような内容が、必要なのかどうか判りませんが、「神様がお育てになられ・・・」という表現や「この人に与えられし本来の役割・・・」という文面に対して、どうしてもお伝えしておかねば、と思えたのです。

大切なのは「明主様のご神格」ですね。

そして、お世話は「明主様のご人格」ですね。御在世中の側近奉仕者の話は魅力的です。直にお聞きするとお世話のあり方が彷彿と致します。しかし「景仰」の内容がよくなかったようです。これは、編集者の才能に尽きますが、明主様のお言葉の受け止め方が整理されないまま出版に至ってしまったことが原因でしょう。

「明主様のご人格」を目指し、また目指すようにお世話することが、根本になくてはなりません。

途中ですが、またの機会にします。

メシヤ教
楳木和麿<2005.2.23・16:51>

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