『観山亭の屋根葺き』の項
信仰生活は「追体験」によって深まりを見ることができます。
御教えや逸話を自らのところへ下ろして考え、日常的にどのようなことを心掛けてゆくのかを明確にし、そして実践する―という反復を重ねることが大切です。
≪本文≫
昭和二十一年のことですが、観山亭の土台が出来、柱も立ち、屋根を葺(ふ)く段取りになりました。
その日は、葺き始めてから三日目ぐらいでした。あと四、五十センチで、全部葺き終わるという時、空が急に暗くなって、真っ黒な雲が現われて来ました。
「困っちゃった。降らないうちに葺き終えてしまわないと、柱にシミがついてしまう。明主様(メシヤ様)になんとか申し上げて下さいよ」と屋根屋はあわてています。
「そうか、ではちょっと待ってくれ。明主様(メシヤ様)に申し上げてくる。だが、あと葺き終わるのに、時間にしてどのくらいかかるのか」
「三十分か四十分です。だが、一時間をみていただきたいです」と屋根屋。
私は早速、側近奉仕者を通して、このことを明主様(メシヤ様)に申し上げました。
明主様(メシヤ様)はかけ出して見えました。
『どうしたんだ』
「実は、いまにも雨が落ちて来そうで・・・・・・」
『よろしい。どのくらいかかる?』
「あと一時間あれば葺き終われます」
『うむ、しかし、ギリギリにして、どのくらいか』
「四十分です」
『そうか』と明主様(メシヤ様)はおっしゃって、五分ぐらい空を見上げられていましたが、(五分と思ったが、ほんとうは二、三分だったでしょう)『これでよろしい。早く葺いてしまいなさい』と言われました。
ふたりの屋根屋が、いそいで全部を葺き終わり、そして梯子(はしご)を降りようとした時、凄(すご)い抜けるような雨です。大豆ぐらいの雨足です。
私は入信したばかりで、半信半疑で、明主様(メシヤ様)が天の一角をにらまれたが、果して大丈夫だろうかと思っていましたが、観山亭のまわりだけが降っていないのです。その先は大雨です。私は全くびっくりしてしまいました。(工芸家)
≪解説≫
この一文は、非常に臨場感あふれる内容です。工芸家が記述したものらしさを感じます。
メシヤ様は空を見上げられて何をされたのか
さて、「空を見上げられていましたが、・・・」とありますが、その時にメシヤ様は何をされていたのでしょうか。
私は、以前の教団で二十代半ばで祭事講習に臨みました。その折り、祭事担当の総本部幹部から「天気を司る龍神に指示されたのである」と聞かされました。
しかし、メシヤ様であろうとも天気を変更するということは、余程のご事情がなくてはなさいません。それが、『ギリギリにして、どのくらいか』というお言葉になります。そして、そのことを告げられる時間が(二、三分だったでしょう)という記述になるのです。
その直後に追体験
私は、そのお話の直後に追体験をする機会に遭遇いたしました。
高知県でまだ土葬をする地域がありまして、葬祭の祭主を担ったことがあります。いよいよ埋葬式を執り行うことになり、墓地に着くとまだ仕上がっておりません。土地の人が懸命に穴を掘っていました。そしてこの時雨粒がポツンポツンと舞ってきたのです。
空を見上げると、真っ黒な雲が現われていました。テントなどもない中で今降られると穴が塞がり、埋葬式自体ができなくなり、神霊に対して申し訳ないことになってしまいます。
私は思わず「あとどのくらいかかりますか」と尋ねました。埋葬し、墓標を立て善言讃詞を奏上し、家まで帰るには最低35分はかかるとのことでした。
私は、土地の名称を冠して龍神名を付け、空の一点を見上げ天津祝詞を奏上しました。そして、埋葬式の旨を奉告し、天気の祈願をいたしました。周辺は大雨になりましたが、そこだけ雨粒が舞ってくる程度で何とか埋葬式を無事終えることができました。
家に走るように帰りまして、最後尾の人が玄関に足を踏み込むと同時に抜けるような雨が降りだしました。埋葬式に引き続き帰家祭を執り行い、ご遺族の方々へ景仰のお話しをいたしました。メシヤ様へのさらなる感謝の念が育まれた瞬間でした。
そうして、こうした事象と対処の取り組みを重ねることを通して、更に御教えに対する深みのある理解を得ていったのです。因みに、私は、今日まで天気についてお願いしたことは、この時と他の地で執り行なった地鎮祭の際にしかありません。それ程、特別な時にしかお願いしてはならない、という弁えを持たねばなりません。
神様は正しい願いは叶えなければならない
神様の座にあられるメシヤ様は空を見つめるだけで事足りるのですが、人間ではそうはゆきません。神格に対して礼を尽くさねばなりません。その一つが天津祝詞奏上です。そして願いが理に叶っているかということが重要です。『最低限の時間』ということがそれに当たる訳です。
これは私達のお世話でも非常に大切になってまいります。神様という存在は、人間の正しい願いは叶えなければならないことになっています。そこで、先ほどのように‘正しい願い’かどうかということが大変重要になってまいります。
自分に都合の良い願いが‘正しい願い’とは限りません。厳しい内容の方が正しいということもあります。そこで、願いの内容の吟味が必要になります。それがお世話です。
だからこそ、お世話というものは大変に意義があることなのです。お世話を通して人様の願いが叶えられるばかりではなく、自らも学びを得ることができ、自然と幸福の道を歩むことが許されてゆくのです。
メシヤ様の行なわれたことは、私達にとっては奇蹟と思われることですけれども、ただ「全くびっくりしてしまいました」という記述だけでは信仰というものは育ちにくいところがあります。私の場合、祭事講習で知り得ることができたので、想念と作法を会得できたのです。そうした逸話は無数にあったと思われますので、それらを普遍化するような編集が望まれるところです。