<神界通信>② 『伊都能売神こと明主でありけれ』

メシヤ教  楳木和麿

平成11年に私は「世界救世(メシヤ)教復興運動」を推進するように企画したのですが、神様から「メシヤ教」を開教するように導かれました。不測の事態も起り、準備資金が不足してしまいました。

その時に、ここに掲載する「お言葉」によって動かされた宗団から寄付があり、他の支援者の協力と相俟って御神体をはじめとする宗教形態が整ったのです。そして、奇しくも、「世界救世(メシヤ)教」開教五十周年記念日に発足することができたのです。

ところが、この「お言葉」は門外不出にされ、公表の許可は今日まで出されませんでした。それが不思議にも、前回の「神界通信」と機を一にして公開を許されたのです。これは、‘時期’の到来を意味するものと拝察いたします。

昨今の情勢と相俟って、メシヤ様が理想とされた教団運営の見本を示しつつ、「第二の開教」を実現すべき時期を迎えているように受け止めております。

≪お言葉≫

我は伊都能売神こと明主でありけれ。

さてさて今にして汝等もやっと気付きしなりや。楳木なる今回の職務につきし救世教本部の誠に幼稚なる裁きは、これぞ神界より眺めしところ片腹痛きこの度の始末なりけれ。よりによりて今の救世教本部司等に彼ほどの人物が今少しでも居るなれば、斯(この)様な恥じらいの道も許されることもなかりきなり。

然れども、これはまさしく人間的な思いでありしなれども、今日ここに到りて彼をソッと救世教上幹部員として置き去りに致すは神として如何にも残念至極に思う事ありて、スッキリと教団の一員に置くことなく広く世間へと開放せしは他ならぬ神であることを忘れるなかれ。

我は汝等をソッと眺め見守りし故は、まあ汝等は汝等なりの判断を持ちてのこの度にあらば、神とてもまあまあ当たらず触らずの平穏無事の道を選びしことなるらん。なれども、それなりに神の方にては、唇をかむ思いも致せしなん。

しからば、今宵初めて汝等の意志の程を聞きし故、今宵の下りと相成りしものなるらん。人間とは、己等の無事ばかりを思い居ったのではこれぞと申す大事は中々できぬ事ぞかし。しからば、昨日安江東の神前にても少々仄(ほの)めかせしなるが如くなりきぞ。

人間完全とはそうたやすくあるものにあらず。神を求め正しき道に出ての想念あればこそ、神は働きを助け金も使いやるものなりきぞ。しからば安江申せし如く、何人と申そうにも天国会の面々は何事にも石橋を叩きて渡ると申せば賢き様なれども、まあ、神から申せば、何をどうこう神の意と致す所を広く労をして貫く者達ではない事は神は遠の昔判り居るからこそ、まあまあの集いと致し居るなり。

余程の事あるのみは下りて霊査的なる事は控え居る事も誰一人として気付かぬ程のうかつと申そうや。のんき者達でありしなん。

我は伊都能売神とあらば、下りての霊査の言葉とても余りにも軽く考え居る事に、少々まあこんなものかとも諦め申す。まあ気にも留めずとも宜しきが、余りにも情けないと存じ居る所なりき。まあなまじと思わぬでもなきが、出来る事なれば今一度チャンスをを与えてみようかとも思いての今回の楳木に対する本部の経緯なりき。

我は前々よりここに上がりたる玉串は我が使うほどにと布教所、聖地へも届けさせずにあるも、全てはこの度の一件に備えての事なるらん。しからば、今宵の祈願は全員で神に奉げてほしかったなれども、まあ心せし種々(くさぐさ)なる思惑もあるなればとも判るなりき。

まず、明主が後を如何程に矢面に立ちて世間ならぬ世界に活動致す者ありや。救世教上幹部達は何れも己、家族、格式、金欲に目がくらみ、生き抜く事に懸命であり、神の仕組みに出で立つ者無と申せよう。彼とても同様、想念のみにては如何せん所なりき。斯(この)様な摘(つ)まみ出しありて、初めて今回の意志が芽生えたとでも申せ様ぞ。

しからば、神は、神の意に沿い行く事なれば、金は決して惜しむ事あらざらん。まあよくぞ申してくれたと少々嬉しかりけれ。神から申させる様では天国会も落ちたものぞ。

決して成功は直(す)ぐと申すものにはないぞ。失敗を重ね、苦きを口に致して初めて神は其(その)真実に応えるものぞかし。しからば、これからの天国会の為にも、神が用意の玉串を使わせてやろう程に、これからも汝等は神に借金と思いて大いに働くべし。

伊都能売神こと明主

(平成11年3月19日 19:07~19:40)

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