『説くのは私、まとめるのはきみたち』の項
メシヤ様には、生涯一貫して実践されたことがあります。
挨拶をする。嘘をつかない。時間を守る。約束を守る。整理整頓をする。物を大切にする。無駄をしない。言葉を大切にする。等々です。
やろうと思えば誰にでもできること、一見簡単な至極当たり前なことを途中でやめることなく、教祖となられてからもず-っと行なわれました。最高位のご神格を有された後も、‘今日ただ今、できることをする’という姿勢を貫いておられます。
また、教祖となられてからのご多忙な毎日でも、全国紙に目を通されチェックし、夜他のお仕事をされつつ奉仕者に読み上げさせておられます。散歩の際にもラジオを携帯して社会情勢に御耳を傾けられておられます。しようと思えば誰にでもできる形で‘情報収集’をされています。
一例ではありますが、この一貫して取り組む御姿こそがメシヤ様の実像です。
≪本文≫
明主様(メシヤ様)は、『私の指導を受けていればいいんだ』といつも言われました。
それで私はある日、「それを、ひとつひとつ守って行けばよろしいのですか」と申し上げますと、明主様(メシヤ様)は、『そうだ』とおっしゃいました。
そういうことから、御神書(宗教篇)をまとめ、整理するという仕事が始まりました。
このことについても、ひとつひとつ伺ったところ、明主様(メシヤ様)は、『聖書だって、弟子が書いたんだ。そういうことは、きみたちのやることだ。私は時に応じて説く。それをまとめるのはきみたちだ。それをいちいち私にきくことはない』とおっしゃいました。
そして、明主様(メシヤ様)は、『これからの若い者は、教えがしっかり入っていなければならない。教えを通して思想性を身につけておかないと、いい仕事は出来ない』とおっしゃいました。(教会長)
≪解説≫
この一文は、私達に大きな示唆を与えてくれるものです。
まず、メシヤ様の『指導』を「ひとつひとつ守って行けばよろしいのですか」という問いに『そうだ』とお答えになっています。救世主としての絶対的な自信に満ち溢れたお言葉です。
このお言葉通りに、御教えに従って実践すれば必ず鮮やかな奇蹟をいただき、私達は確信を深めてまいりました。メシヤ様として現界にお出ましになり、私達に救いの力と方法をお授けくださった訳ですから、その通りにすれば必ず御守護いただけるのは当然と言えば当然なのですね。
換言すれば、御教え通りに実践して御守護をいただけないほうがおかしいのです。また、抱えている問題の解決が許されないというのもおかしいのです。御教えに沿って対応すれば、方向性は自ずから定まるからです。
『時に応じて説く』
守るべき御教えを「教」として、それに基づいて世の動きを見て「論」を展開する。この「論」というものをお説きになることを『時に応じて説く』と、仰ったのであろうと拝察できます。
メシヤ様は、絶対的な救済力をお示しになりつつ、ご自身の御経綸上の位置関係を数々の詩歌で詠まれております。収録されている『詩歌集』を垣間見た上で私達の心得ておくことは、『新聞、ラジオを通して時代の動向を見極め、主神様の御経綸を把握されていた』という点です。これは、私達の歩む道を踏み誤らせないための範でもあります。
『時代の流れこそ、主神様の御経綸の現われである』というご認識がおありになった、ということを私達がまず認識していなくてはなりません。そうしなければ、教線の拡大と共にカルト化してしまう恐れがあるからです。また、大きくなれば既成宗教化してしまう危険性もあるからです。
『まとめるのはきみたちだ』
次に『聖書だって、弟子が書いたんだ。そういうことは、きみたちのやることだ』とおっしゃっておられます。このお言葉が御神業を受け継ぐ者のあり様だと拝察できます。
前述のように決して動かされない「教」があり、時に応じて展開された「論」がありますが、「論」はさらに時代の推移とともに変化することもある訳です。
「世界救世(メシヤ)教 教義」について考えますと、『抑々(そもそも)世界の創造主たる主之大御神(エホバ)は、この地上に天国を樹立するべく、太初より経綸を行わせ給いつつある事を吾等は信ずるのである。』は不動のものです。公式にご発表された御神名も唯一無二です。
ところが、『・・・主神は吾等の教主岡田自観師に救世の大任を下し給い・・・』というところは、現在では変わらなくてはなりません。教主という御座も代わられていますし、まして弟子の立場からすると、『救世主(メシヤ)』という尊称が自然に出てまいります。
メシヤ様は、御自ら『自分がメシヤである』とお述べにはなっていません。だからこそ、聖書を引き合いに出されているのです。また、『救世主八大資格』を述べられ、『その条件を具備する者を見出せば、其(その)時こそ彼に指導を受け、光明を被る事を得る。』とされております。
そして、『開教の辞』の中では、『・・・観世音菩薩の御働きも救世主(メシヤ)のそれとなるのは勿論である、即ち化身仏であらせられた観世音菩薩は茲(ここ)に仮面を脱いで、御本体である神の御働きとなり給うのである。』と明言されております。
そのことから、『主神は吾等の教主岡田自観師に救世の大任を下し給い』というところを『主神は吾等の岡田茂吉教祖に救世主(メシヤ)の大任を下し給い』とするのは当然なことであります。また、その作業もこのお言葉に基づいて執り行ったことなのです。
しかも、教祖のご神格がより明確になり、そのことを信ずるところからご昇天後の新たな信仰が始まるのです。
『思想性を身につけておかないと、いい仕事は出来ない』
以上のような基本の上に立って思想というものを考えてみれば、各個人の体験に基づいた発見や学び、悟りというものが‘点’として生まれ、それらが御教えと結びついて線となります。御教えの実践と学びを積み重ねることで、線はやがて面となります。
更に、それらに時代性が加わって原因と結果が把握できるようにもなり、思考が立体化してゆきます。このように立体的な思考体系ができ上がってゆくと、思想性が身に着いてゆくということになります。
メシヤ様は、御教えの拝読を強く求められると共に、『思想性を身につけておかないと、いい仕事は出来ない』と、釘を刺されています。肝に銘じておきたいところです。
そして、前述のように「教」、「論」がしっかり組み立てられて、現代社会でどのように生きるかが「律」です。これが何時もお話しする「教・論・律」で、宗教生活の基本になります。また、この「律」には、冒頭述べましたようにメシヤ様が生涯実践された項目が大前提としてあります。
メシヤ様が示されたそのままに取り組む姿勢が私達にある限り、どのように大きな組織形態となろうとも、自分で自分を守ることができるのです。自分を守るとは、邪神に乗ぜられない、という意味であることは申すまでもありません。