五六七大祭

愈よ本教救世(メシヤ)教となって第一回の五六七大祭を例年の如く三月五日、六日、七日の三日間に執行はれる事になったのは、まことに目出度い限りである。

此(この)意味によって、今日の祭典の重要なる意味を思う時感慨無量である。私が御神業に身を投じた抑々(そもそも)の第一歩は昭和三年二月、節分の日であったから、今年で二拾三年目である。此(この)二十三年間に基礎工事が成ったので、愈よ本格的に発足すべく陣容を整え、世界人類救済の大旆(おおはた)を翳(かざ)して、本格的活動に入らんとするのである。言はば今迄は楽屋で扮装していたようなもので、扮装が出来上がったので、茲(ここ)に舞台へ登るようなものである。

大体、メシヤとはキリスト教と深い関連があるので、此(この)解釈は欧米に於ても諸説紛々として今以て決定はされないようである、というのは人智では深い神秘の奥を探り当る事は困難であるからである。

私自身としても未だメシヤとは名のらないと共に、キリストの再臨ともいはない。之は或時期までは神様から発表を禁じられてゐるからでもある。尤も仮にメシヤの降臨などと思はれでもしたら大変である。世界中からワ-ワ-とやって来て、到底仕事など出来るものではないからである。

今日確実にいえる事は、世を救ふべく大経綸を行ふ事である。之は現に私が行ひつつある事実を見れば判る。救世(メシヤ)教の名を冠したのもその為である。

茲(ここ)で特に言ふべき事がある。それは凡ゆるものが世界的になった今日、既成宗教は未だ殆んどが、限られたる地域的救の業であるに見て、全人類を救ふべき使命ではなかった事を知るべきである。只だキリスト教のみは、全人類の救ひが使命であるから、今日の如き大を成したのである。といっても現在の如き全人類の一大苦悩を救い得らるるかは大いに疑問の余地があろう。何となれば事実が明かにそれを示しているからである。忌憚なくいえる事はもはや宗教そのものの力ではどうにもならないので、之は識者の等しく唱える処である。茲(ここ)に於て率直にいえる事は、宗教以上の力が出なくてはならない事で、これが超宗教でなくて何であろう。

元来、宗教とは読んで字の如く宗祖の教である。彼のバイブルといい経文といい、コ-ランというも畢竟文字を介して教え人間の魂を目覚めさせるのであるから、畢竟人間の自力である。処が今日はもはや人間力では間に合わない事になった。勿論教も必要であるが、それ以上大神力の発揮がなくてはならない。といっても生神様的個人の力でもむづかし。どうしても全人類を主宰し給う主の神即ちヱホバの絶対力の発現である。勿論人類発生以来今日まで、右(上記)のような大神力は出なかった。それは地上天国準備だけの力でよかったからである。言はば本教と同様これまでの世界は楽屋であった訳である。処がいよいよ時期熟して世界は茲(ここ)に一大転換と共に、天国樹立といふ神の理想実現となったのである。

此(この)事が根本であって、之を深く認識する事によって初めて大神業に参加され得る資格者となるのである。(昭和25年3月11日付発表)

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