メール交換⑥
メシヤ様が執り行なわれたご神事とご事情
Q. メシヤ講座・特選集(7月分)は、非常に高度と言いますか、次元の高さを痛切に感じさせられました。特に、メシヤ様の『之を深く認識する事によって初めて大神業に参加され得る資格者となるのである』というお言葉(五六七大祭)はズシリと来ました。それにしましても、昭和25年の開教時に暗雲が覆っていたということに驚かされました。メシヤ様に様々な‘制約’が課せられたことなど、想像もできませんでした。
A. これも大変な深刻さを有しておりますが、世界救世教の資料中に井上達江女史(井上茂登吉先生の奥様)の手記があります。それによれば、昭和28年7月にメシヤ様が突然井上家を訪れ次のように仰られた、とあります。
『あんたも三千年前神様にお仕えしていた因縁のある一人だから話すが、今私はどうしてもやらなければならないことがある。邸は人の出入りがあり、途中邪魔が入って出来ないのだが、これは将来教団の発展と人類救済に大きな訳がある(実はもっと詳しいお話がありましたが・・)。その神事に井上の家を使いたい』
メシヤ様はこのようにお話になり、その夏、度々お出ましになられたそうです。そして、メシヤ様とご夫君、側近者(伊弉册尊の型・現界の罪を背負う)だけでご神事が執り行なわれた、とされております。
ご神事の最終日にメシヤ様は『これで間に合った、人類が救われることになるんだ。あんたは子供と一緒に大変な御用をしたんだ。ありがとう』と仰ってくださった、とあります。
昭和28年7月と言えば、聖地・箱根神仙郷が完成した直後です。そのような時節に、井上家(しかも借家だったそうです)で執り行わなければならなかった訳ですから、余程のご事情があったと拝察されます。
メシヤ様の浄霊力伝授様式
Q. 信じられないようなことですが、深刻なご事情がおありになったのですね。
A. 更に深く考えさせられることは、「おひかり」に関することです。「信仰読本」(1)の29ぺ-ジに「おひかり」を掛けなくとも浄霊力を授かる旨の記述を致しました。その項で、健富和協会の会報五号から次のような内容を引用させていただいております。
「昭和二十九年四月十九日、明主様(メシヤ様)は浄化のため、お文字をお書きいただけなくなりました。その後役員会で当時理事長であった木原義彦先生は、お文字を印刷して、ご神前でお願いし、御守(おひかり)として下付しようと発言され了承されました。しばらくしてから明主様(メシヤ様)から『御守(おひかり)はどうしているか』とのお言葉があり、側近の阿部執事が「木原さんがこのように申しましたので、このようにさせていただいております」というふうに申し上げたところ、『ああ、それで良かった。それでいいんだ。本当は御守(おひかり)はなくてもいいんだけどな。入会者の氏名、年齢、職業を私に報告するだけでよい』とのお言葉があったのです。」
「信仰読本」では、ご昇天後について述べられた『(御光を)霊界から出しますから同じ事です。反ってよく出ます。体があると邪魔になりますから』というお言葉を併記させていただき、「この内容は私達に大きな安心感を与えると共に、さらなる求道心を掻(か)き立たせるものです」と記述いたしました。全くその通りなのです。
しかし、反面一つの大きな疑問点が内在していることも事実です。ご浄化中であろうとも、役員会で決定する前に、何故メシヤ様へ直接お伺いしなかったのだろうか、ということです。
メシヤ様は『本当は御守(おひかり)はなくてもいいんだけどな』と仰っていますので、事前にお伺いすれば、昭和29年の時点で、浄霊力伝授の様式変更がなされたと思われます。時期を遅らせてしまった観を否めません。
しかも、この時点での対処の間違いが、繰り返された教団紛争で必ず「おひかり」が楯に取られ、宗教性のない低次元の問題が重ねられる原因となっているのです。そして今も、世界救世教いづのめ教団では低レベルの紛争が続けられております。
世界布教を前提とされたメシヤ様のお言葉
Q. もう一つ驚愕させられたのは『生き神様的個人の力でもむづかしい』というお言葉でした。
A. このお言葉は将来を見越して仰られているようで、先見性に唸りたくなるような内容ですね。
将来とは現代のことです。今、宗教宗派を超えて浄霊力を伝授することを許されておりますが、世界には偶像崇拝を嫌う人々が多くいらっしゃいます。そのため、どうしても『生神様的』な色合いが強いと世界布教が成立しない面があります。
世界の万人が待ち望んでいる「救世主の証」の一つが浄霊力であることは申すまでもありません。しかし、偶像崇拝的な色合いを少しでも感じると、それだけで拒絶感が発生し、肝腎の救済力を授かることができなくなる人も出てまいります。それでは元も子もなくなります。
また、学術的な世界観や宇宙観を極めて行き「宇宙意思」や「絶対的な法則」を認識するようになり、それらを基に自分を律して生きる信念体系を築いた人へ伝授する場合も同じです。適切なあり方が求められるのです。
それ故に、前回引用させていただいた『五六七大祭』のお言葉は重要な意味を有することになるのです。『生神様的個人の力でもむづかし』という表現は、「世界救世(メシヤ)教」という『世界』を冠した時点での、将来への答えだったのです。当然ながら、御神名についても深慮の御心が拝察されます。御神名も御神体も世界布教を前提として存在するのです。
メシヤ様は、全てを見越しておられたのですね。万国万民を救われる大愛がそこにはあり、小さい形には囚われないところが何とも素晴しいところです。
この根本を深く認識した上で御神業に臨ませていただける私達はこの上なく幸せです。誇りを一層持つことができます。何せ高弟と言われた方々が到達でき得なかったところへ、ス-ッと立つことができたのですからね。
ス-ッと立てると、今までの参拝や浄霊と異質な体感があると思います。その体感は、ご在世中に人々が体感したものと同質なものです。これはとても素晴しいことです。
(註) 二回に亘って資格者向けの内容になりました。「神界通信」でもご紹介いたしましたように、今、歴史的な一大転換期の渦中にありますので、あえて「メシヤ講座・特選集」で採り上げました。