信仰生活の概念を転換する
私達の子供の頃には、「ご飯を食べてすぐに横になると牛になるぞ」と言われて姿勢を絶えず正された訳です。「角が生えてくる」とも言われ、額を触りながら寝っころがりました。(笑い)まあ、そうやって躾けられたのです。
そうすると、「神様」というイメージは「バツを与える存在」というように勘違いをして育つ部分があります。例えばそうした概念を持っていたとすれば、転換してゆかねばなりません。
神様は罰を与えません。神律に基づいてそのように見える結果を招くことはあります。しかし、罰という類いのものは祖霊が与えるのです。『祖霊の戒告』という御教えがありますね。自分の子孫が道を踏み外しかけていると、間違いに気付かせるためにゴタゴタを起こしたりします。
神様には、人間が正しい方向に進む場合力を与えなければならない役割があるのです。正しい願いを叶えなければならない役割があるのです。これが本来の信仰の考え方なのだということを是非理解していただきたいのです。
先程の本の中に『人間とは』という一説がありますので、御教え拝読を担当した方、拝読していただけますか。
拝読―『本来、人間というものは、神様の御目的たる理想世界を造る役目で生まれたものである以上、その御目的に叶うようにすれば、いつも無病息災愉快に働ける。これが不滅の真理である。
そうして神は一人一人それぞれの使命を与え、特徴を持たせ、生き変わり、死に変わり、理想目的に向かって前進せしめつつあるのである。』―ありがとうございました。
毎月の「家庭慰霊祭」で拝読していただく内容です。これが人間というものですので、私達は生れ代わり死に変わりつつ進歩向上しながら生命を繋いできたのです。ですから、先祖から受け継いだものの内で良き特徴は受け継ぎ、問題とすべきものは改めてゆく作業が実は必要なのです。
家庭慰霊祭は、その作業の節目になるのです。教団で祭祀料を包んで人任せにすることではないのです。
そのためには、自分の家系のことをもっと調査しなければなりません。代々積んできた徳と罪穢れというものがあります。それらを充分掌握し、吟味して、その徳の部分を受け継いでゆく決意をするのが家庭慰霊祭でもあるのです。
また、罪穢れに相当するところは改めてゆくことを家庭慰霊祭で毎回誓うのです。そうした積み重ねを先祖は最も喜ぶのだ、ということを再認識していただきたいのです。それが私達の信仰生活なのだ、ということを本日の開所式で改めてお伝えいたします。