祝詞奏上について

ただ今「御神体」をお迎えいたしまして、ご一緒に祝詞を奏上させていただきましたが、作法の動きや奏上の仕方が多少違うと思います。少しずつ慣れていただきたい、と願っております。

以前のメシヤ講座で触れていますが、祝詞奏上については心に深く刻んだ想い出があります。前の教団で布教現場の責任者になったのは、若干25歳でした。若い、小僧でしたので古参の信者さん方から色々と小言もあった訳です。その中には祝詞奏上に関することもありました。

今のように声が高いですので、「中々ついていけないからもう少し低く上げてくれ」という声がありました。それから、言葉をはっきり上げてゆくので、「もう少し判らないように上げた方が有り難味がある」などという声も寄せられました。

私は「これは自分の地声だし、神様へ誠を持って真向かえば真向かう程こうした祝詞奏上になってしまうが・・・」と悩み始め、メシヤ様へお祈りした時期があります。「どうしたら良いでしょうか?」とお尋ねしていましたところ、夜中にメシヤ様が出てこられて『わしの祝詞を聞きなさい』というご表情で天津祝詞を奏上してくださったのです。

ご尊影のような和装のお姿でした。その後ろ姿は私の脳裏にクッキリと焼き付いています。今でも瞼を閉じるとそのときの情景が鮮明に浮き上がります。

そして、その直後に「祭事講習」に出席する機会が許され、その席でご在世中の祭事の様子やメシヤ様の姿勢を垣間見ることができました。“奏上の仕方はこのままの姿勢でゆこう”と確信を深めた次第です。

その天津祝詞の奏上の仕方が、ただ今の参拝のような声と調子であった訳です。私はそのお姿を鑑として、何時もそれを目標にして絶えず祝詞を奏上させていただいているのです。絶えず求めているということをご承知おきいただければ幸いです。

それぞれ地声がありますし、キーの高さもありますので、合わせるのに難のある方もいらっしゃると思います。大切なことは神様へ真向かう姿勢です。誠を込めて奏上するという姿勢です。

天津祝詞

まず、朝拝では天津祝詞を奏上させていただきます。天津祝詞は「祓い詞(はらいことば)」ですので、神様の御前で御力をいただいて「言霊によって祓い浄めていただく」ということです。それならば、そうした想念で、しかも祓い浄めるように高らかと奏上することが大切です。

しかし隣近所のこともありますので(笑い)、その当たりは常識的に執り行なっていただきたいと思います。ただし想念だけはしっかりと持って臨まれるようにお願いしたいところです。

メシヤ様は『天津祝詞の創られたのは、神武天皇よりも古い昔のことで、天照皇大御神の系統の神様、大和民族の系統の神様によって創られたもので、非常に言霊が優れている。浄める、天地浄化の言葉の働きが強いのである』と教えてくださっています。

『大和民族の系統』とありますので、覇権主義が入り込む前の絶対平和主義、徳によって治まっていた時代のことを念頭に置くことが重要です。天津祝詞を奏上する者の心に「あいつは憎い奴」だとか「あいつをやっつけたい」、「懲らしめてやりたい」、「征服したい」などという思いが仮にあっては相応しくない訳です。

日頃から「大和民族の系統」の神様に真向かうに相応しい想念を持っていませんと、御神前へ額ずいても場違いになってしまいます。(参照 メシヤ講座・特選集no.56

善言讃詞

次に善言讃詞ですが、夕拝で奏上させていただきます。メシヤ様は『あれ(善言讃詞)は仏教の観音経を土台にして、和歌のように創ったものですよ』と仰っておられます。

また『観音経を縮めたものです。この経はもとはインドの言葉である梵語(ぼんご)で書かれ、二千数百年前のインド人の生活に合っていた。・・・現代には現代に適応する方法でなければならない。それで善言讃詞を創ったのです。・・・仏教のよい点を神式にしたのが善言讃詞なのです』という御教えもあります。

観音経というお経はどういうものかと考えてみますと、大宇宙をも動かすと言われております。

仏教の中で「一切は空なり」ということがあります。解説は種々ありますが、解ったようで解らないことです。「空」ということについて考えてみる時に、五輪塔というものがあります。五輪は空、風、火、水、地という要素から成り立っています。

これは、神代文字の母音の要素と共通しています。そして「空」は「あ」行に当たります。一切の諸元、源、初めを表現します。始まりなのに空ということはどういうことになるのだろうか、と思います。この「空」とは一体どのように考えればよいのでしょう。大きな意味を有していることは確かです。

火・水・土の火の根源は太陽ですが、ここで太陽のことを考えてみましょう。皆さん太陽とは何だと思いますか。熱の固まりのようなものだとイメージしますね。表面温度は約6000℃と言われていますが、仮にその高熱に耐え得るモノで太陽に突入したとします。どうなると思いますか。

理論上、入って行くと突き抜けてしまいます。それは水素とヘリウムガスからできていますので、そういうことになります。核融合で光と熱を発しています。表面温度は約6000℃ということですが、中心部の温度は不明です。実は熱がないと主張する人もいます。それはさて置き、突き抜けてしまう。「空」なのです。

絶対的な光と熱を発しているにも拘らず、ガスの集合体で、モノとして考えればぶつかる物は何もないということになります。物体としては何もないのだが圧倒的な存在であり、「一切は空なり」とは正にこのことなのだ、と思わされます。私達の地球に光と熱を与えてくれているのだけれども、実体はガスなのだということです。

こうしたことを考えた時に、観音経は大宇宙おも動かすという意味合いがおぼろげながら感じ取ることができるのではないでしょうか。太陽は、向こう50億年は核融合を続けると言われていますので、益々解らない存在です。しかし、太陽系は規則正しく運行されています。そのお蔭で私達は地球上で平穏無事に生存することができている訳です。

この地球は太陽系に所属していますが、太陽系は銀河系の一部ですね。銀河系は直径約10万光年と言われていますし、その中を太陽系は2億年掛けて回転しています。また宇宙には他に銀河系が1000億以上存在していると推定されていますので、気の遠くなるような話です。

平成19年5月メシヤ講座より

 

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