布教の原則―何故私にご啓示が下ったのか
先程触れたような教団改革やお世話において公私に渉る問題が生じた時に心掛けなければならないことは、“泥を被る”ということです。責任を回避しないということです。泥を被らない者は詭弁を弄します。どこまでも自らが率先して汗を流し、泥を被リ責任を回避しないということ、それが布教の原則とも言えます。
私は、少なくともそれを貫いたからこそ、役職を解かれ一兵卒になった時期もあります。それでも尚且つ、下積みから御神業を勤め直し、やり遂げようと積み上げてまいりました。
一心に人間の問題解決に努めて、また解決のための学びを深めてゆきました。それが「メシヤ様のご精神を現代に求める」という取り組みで、それを重ねたので、救済のための幅広い人脈を得ることができました。
また、権威の崩壊を、活動の中で嫌というほどに目の当たりにして参りましたので、「るナ三訓」にある「威張るナ」ということが身に沁みており、どのように高位に付いたとしても心掛け続けたのです。
その姿勢の延長線上に『宗教宗派を超えて浄霊力を伝授する』というご啓示を賜わったのです。そして、その恩恵に浴する人々は、更に拡がりを見ております。
また、私が賜わったご啓示は、一端宣布すると、私の“専売特許”ではなくなる性質を持っています。何故なら、メシヤ様から賜わる御力であるからです。そのため、他教団で「当方もご啓示をいただいていた」として幅広く浄霊力を伝授していただいても、異論を差し挟むことはないのです。
そうした姿勢が、メシヤ様の恩恵に一人でも多くの方々が浴することになるからです。これが「世界救世(メシヤ)教」復興事業の眼目中の眼目でもあるのです。