幼児性、依存性、勘違いの修正

精神の癖を取る取り組みについて、以前の久民さんの体験記を通して触れたことがあります。三千年来の罪穢れと並行して、私達の精神活動にも癖というものが染み付いております。そして、その上に成長過程で刷り込まれたものが本来の魂を曇らせています。この刷り込みで付いた精神の癖は自己教育の積み重ねで変容でき、魂の本来の輝きを取り戻すことができます。

ところが、三千年来の罪穢れからくる魂の曇りは自己教育や努力だけでは容易に取り除くことはできません。

また、一口に言う「宗教に対する不信感」というものは、宗教団体が本来の宗教の使命を全うしていないことに加えて、そうしたものの複合で生じております

久民さんには原稿の後半部分を数度書き直してもらいました。私は体験記というものの添削を余りしないように心掛けておりますが、今回は精神の変容を重視したいために書き直しを依頼しました。取り分け生活における変化は、信じることで変わったのでも、宗教への不信感をなくしたから変ったのでもありません。自分自身の愚かさ、無知さ、勘違い、幼児性、依存性に少しずつ気付き始めたから変化したのです。

ご本人には酷な表現ですが、面談を通して指摘されたことがやっと理解でき始めたからです。その辺りの記述が短絡的過ぎるので書き直していただき、皆さんの参考にしていただきたかったのです。

短絡的になるところは幼児性が抜けきれていない点でもあります。指摘されたことを軽く見て、できてもいないのに“お前が一番”という親の育て方のためにできると錯覚してしまう癖が原因にあるのです。経済的に恵まれてはいても、不幸な環境で育ったことになります。大分県日田市は天領地として知られている通り保守的なところがあり、未だ封建的な考え方が残ってもいます。そうしたものの中で“負”の部分として刷り込まれたのが、“長男のお前が一番”という言葉なのです。

また、大学時代に懸命に学習を重ねなければ、他の人の優秀さと自らの浅学さに気付きません。何故なら、選抜された人が集まるからです。やっと入学できた人でも良き教師と出会うことにより開花します。より上の大学を目指した人も諸事情で入学してきます。様々な才能が交じり合い切磋琢磨するところなのです。それを称して“人脈を得る場”というのです。バイトや遊びに呆(ほう)けていると、肝腎なことが見えてこないのです。

だから、本来幼稚園や学校の役職を受けてはいけない立場であるはずなのに、平気で受けてしまう。少し調子が出てくると大柄な態度になる。できもしないのに約束をしてしまう。そうしたことが続けられてきたのです。勿論借金も、できもしないことをできると勘違いするところから膨らんでしまいます。

借金の場合、大変な苦労をしてでも、例えば親から見捨てられたかのように感じても自分の力で完済すれば、依存性は生じないのですが、仮に親が尻拭いをすると、その瞬間に依存性が生まれます。生まれるというと誤解を招きますが、依存性が親子間にあり、それが浮き出てくるのです。

尻拭いをするのは、親の当然の心情からのもののように受け取られがちですが、実は子供へ依存していることの裏返しなのです。そうしたことを総合して推察すると、久民さんの場合はお母さんがご自身の命を引き換えに立ち直らせようとされたように受け止められます。何故なら、久民さんの隠し事を悉く妹さんへ知らせているからです。久民さんは当初、それを鬱陶しく感じていました。その感覚が実は幼児性なのです。

以上のような勘違い、依存性、幼児性を丁寧に指摘しながら、染み付いた精神の癖を取り除いてゆかねばならないのです。それが宗教の本来のお世話です。しかもお世話に当たる側も、その作業の中で自分自身の精神の癖に気付き、向上を目指すことができるのです。それが、『因縁の人が因縁の人を導く』ということの一つの意味です。

ですから、そうしたお世話をしない宗教は存在意義がないことになります。また、信仰をさせていただいて、人様のお世話に取り組まないということは、学びの機会に恵まれず“もったいない”ことになります。

話を久民さんへ戻しますと、絶体絶命の窮地に立たされたことで立ち直る心が芽生え、自らの指を切断せねばならないところを浄霊によって御守護いただいたことによって本物になりました。実は、絶体絶命の窮地は大学の時だったのですが、お母さんが尻拭いをしてしまったために、ごく最近まで持ち越されてしまったのです。また、浄霊の奇蹟は現実の危機を救いますが、神様の存在を認識することができ、『隠し事はできない』と心底思えるようになり人生の大転換を迎えることができたのです。

自分の危機を救ってくれた神様のお言葉であるからこそ、御教えを本気で学ぶ姿勢も生まれるのです。しかも、評論的に読むのではなく、自分自身を立ち直らせるために拝読するのです。そして御教えに基づいた話を素直に受け入れることができるようになるのです。

指の切断を免れたことは一時的な御守護と言えますが、人生の大転換を図れたことは永遠の御守護なのです。浄霊は、現当利益であると共に永遠のものを私達に齎(もたら)してくれるのです。大変素晴らしいことなのです。

平成20年9月メシヤ講座より

 

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