宗教になった意味
② 『宗教になることだって私がしようと考えてしたんではない。進駐軍の中佐の牧師がある程度この道を了解して、これが将来発展すると必ず医者と衝突して禁止される、それには宗教になってなければ……というわけで宗教になったんです。まったくなってよかったんです。これで全国の医師会との間に起っていたいろいろな問題もなくなってしまったんです。(御光話 S23年5月18日 御光話録・補)』
○宗教でなかった頃の方が医師と問題があったことが窺われます。そうすると MOAの療院というのはこの教えに逆行しているように思えます。
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≪解説≫
②は、民間療法的活動から宗教活動にお移しになられた背景と実行後の安堵感を述べられております。背景というものを見つめると、御神慮を痛感させられるものです。
一方、「そうすると MOAの療院というのはこの教えに逆行しているように思えます。」と指摘するように、時代性を求めているという文言とは裏腹に進んでいるようで逆行していることもあります。
先日、MOA会員で熱心な「東方之光」教団の信者さんの御好意で【「教綱と憲章」の解説 MOAと「東方之光」の誕生】という資料に目を通しました。時の推移により許された御守護は信者及び関係者の御努力が滲み出ている内容でした。しかし、御経綸の型としての捉え方は“主観的”“独善的”の誹りを免れ得ないものでした。
「昭和30年2月10日ご昇天という衝撃的な事態に遭遇した教団は、ご昇天の混乱から立ち直るために、時の教団執行部によって既成宗教化の政策が採られた。その第一歩は最高最貴の神霊と合一された人類の救世主・明主様をエンジェルと位置付け、一宗の教祖に止めたことであった。そして一般の宗教観で受け入れ理解できる範疇のみ教えを中心にして昭和32年8月20日に『天国の礎(第一篇)』が刊行され、それ以外のみ教えは全てお蔵入りとされた。・・・」
という認識は共有すべきものではありますが、昭和58年からの教団紛争については「経綸上の浄化」と表現し真実を包み隠しています。耳触りの良い表現を用いることにより真実が語られていない、この一点において尊い内容が台無しになっています。“ウソの上塗り”の印象を深めさせることとなり、非常に残念でした。
真実が包み隠されていることに起因してか、メシヤ様の御神格に対する認識ではさらに残念な結果となっています。昨年「春の芸術祭」初日で間違えて奉告された「立春祭 ご面会奉告」の内容が全てを物語っています。
「立春祭 ご面会奉告」には、「それは、明主様のご神格を、み教えとご事蹟に基づきメシヤとして明確にさせていただき、各被包括法人が同じ文言で機関決定することが決まり、東方之光としては臨時の理事会にて議決させていただいたことでございます。」と、宣り現わされていたのです。
その奉告詞が手違いにより、結果的に再度奉告されることになったということは、これこそが御神意と受け止めねばならないのではないでしょうか。
御神格の確定がなされたと言いながら「メシヤ様」とお呼び申し上げることにはなっておりません。この上なく尊い第一歩を踏み出せずにいるのです。また、御神名も「明主之御神」のままです。『言霊は同じ』という御言葉を理由にし、しかも最高最貴の御神霊に対しては『大御神』とせねばならないことを御教えによって心得ているはずにもかかわらず、素直に『メシヤ大御神』様とさせていただいていないのです。
『メシヤ様』と唱えることで、絶大なる救済力を賜ることを実証してきた私達からすれば、“もったいない”の一語に尽きるのです。信徒の皆さんがせっかく賜る筈の恩恵を先送りにしているのです。光が強くなったとされる時代から、有に50年が過ぎているのです。毒素溶解のシステムに伴う大まかな急所は認識すべきではありますが、浄霊力が強化されていることから御守護は速やかになっていることを認識すべきなのです。
そうした観点から見つめるからこそ、濵口博幸さんの感懐のように“時代に逆行している”と指摘せざるを得ないのです。
しかし、この資料【「教綱と憲章」の解説 MOAと「東方之光」の誕生】を繰り返し研鑽した人ならば、「メシヤ論の研鑽結果、如何に今日まで御神格を低きに置いた信仰であったかを痛感する」ことに辿り着くと思われます。そして、「メシヤ様」と素直な気持ちでお唱えできるようになり、絶大なる救済力をいただけるものと確信いたします。
基より、そのことが「世界救世(メシヤ)教復興事業」の要めでもあります。『可能な限り全人類を救う』というメシヤ様のご悲願が達成されない限り、組織的な事が整ったとしても意味を成さないからです。
また、既にそうしたことに気付き始めた方々が、教団の枠を超えて増えていることを8月に確認することができました。これはとても喜ばしいことであり、時期の到来を強く認識させられるものでした。