信仰を説いてこなかった

代表先生(前略)せっかく「メシヤ様」が、こうして「顕現」されたのに、そういうことを「認識」しないで、お祈りをしていると、やはり、他の代理の神様が御神前に出てくる、ということになりますね。以前私が教団に所属していた頃、布教所を転勤して回っていた時に、そこで信者さん方に必ず言ってきたことがありますが、我々は『浄霊』力を授けられたということは、メシヤ様はこれは『霊』の行使だと仰っておられるから、(浄霊をさせていただいていると、)そこら辺りの霊能者同等あるいはそれ以上の力を発揮するわけだから、いわば、我々の(生活上の)『心言行』は、『祈祷師のよう』になっていくわけですね。まあ、世間では”飯縄使い”とかあるでしょ?また、相手を呪い殺すような魔界の”呪術の使い手”というのがあるでしょ?それと同じように、(メシヤ様の御浄霊を、人が直接的に手をかざして、祈り放射するということは)「霊的な力を行使」出来るようになっているんだ、ということですね。これは「御浄霊」だけれども、また、御神前で『祝詞奏上』するときに、“不平不満”や、“あいつコン畜生”とか、“あいつ許せんな“と思っていると、呪術的に相手を苦しめる祈りをしているようなものなんですよね。

で、最高神に天降っていただけるので、「最高神に合わせた想念で祝詞を奏上しなくてはいけない」、と思ってしてきた人達は、最高神が御降りいただいているんだけれども、”不平不満”な気持ちとか、”敵対心”とかで、奏上していると、“許せん”“敵を討ちたい”という役を担った神霊が(周辺や自分に)降りてきて、守護していくことになっていくということになるので、どうしても、ここにメシヤ様が御解説して下さっているように、「いくら熱心でも良からぬことが起きていく」という方向になっていくというのは、そういう『仕組み』がある、ということを、この『文明の創造』を拝読しながら、より一層わかって頂きたいと思います。

で、そういう点からすると、今日の「善言讃詞」をあげた時にですね、「無量無邊の大慈悲に 天魔羅刹も服ひて諸悪邪法は改り 夜叉龍神も解脱為し諸善佛神咸く 其志を遂ぐるなり」という言葉が実現化していくように、われわれは信仰していかないといけない。

ですから、○○教団の人をお導きする、改心して頂く時には、「諸善佛神咸く 其志を遂ぐるなり」という想念で行かないと・・・。

“みんな、良かれ、と御神業に臨んでいる”んだけれども、結局、「薬を併用するという、邪神界の代理」をしているわけで、そうすると本来の志を、「死ぬまで、永遠に、遂げることが出来ない」ような状態にあるので、それでは「お気の毒」ということで、「手を差し伸べていくんだ」、という想念で、働きかけてください。

私達は『夜昼転換』の御教えをいただき、大変高い視座による歴史観を提示していただいているのですが、信仰生活の中に『夜昼転換』が実践されていなかった面もあるのです。いや残念ながら、そのように指導されてこなかった訳なのです。

そのために、「これまで浄霊をして、御用も取り組んできて癌になったのだから・・・」という医者の話は、違う意味で重要なのです。「新しい経綸」と言われても、御教えに照らして考えた時に“ちょっと違うのではないか”と考えてしまいます。これは当然なのです。しかし、モヤモヤを抱えながら御神業と称して取り組みに参加すると曇りを発生してしまうのです。また、『夜の時代』の精神の癖を指摘されずに活動に臨んでいると、『知っているからこそ生じる罪』が発生してしまうのです。

それが医者が言った意図とは違うものの、根本的な意味での課題なのです。

つまり、浄霊をいただいて癌は消えるのですが、『夜の時代』の精神の癖を取り除いてゆかねば新たな霊の曇りを発生させてしまうのです。このことに気付かねば、信者は救われません。初めてご縁をいただく方は、『知らなかったので罪は軽い』ということから、浄霊をいただけば瞬く間に救われるのです。しかし、信者は曇りを発生させ続けたことのお詫びから再スタートを切らねばならないのです。

 

平成23年5月メシヤ講座より

 

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