主神様に向かう姿勢を整える
御在世中から近年まで、主神様を認識することのできる思想体系、学究のレベル、文化情操が整っていないために、信仰の対象も代理神を以って拝む形態で信仰が営まれてきましたが、『宗教も進歩発展しなくてはならない』という御言葉に鑑み、整えてゆく時代を迎えていることは間違いないところです。
私が御神体を御啓示によって謹製させていただいた時に、何時も指摘される場合に引用される御教えに下記の内容があります。
(前略)然らば真に正しい、高位の御神霊は、何神で被在(あらせ)らるるかというと、それは主の神の表現神で被在(あらせ)らるる天照皇大神様であられるのである。天照皇大神様は、最尊最貴の御神格に渉(わた)らせらるる故に、人民まことが自己の希望を念願し奉る如きは、寔(まこと)に恐多いのである。恐多き儀ながら、陛下に対し奉り、人民が直々に、何とも願い言は叶わないのと同じ意味であるのである。
此故を以て、主神は、伊都能売神を介して観世音菩薩に、救の力を与え給うたのである。 茲(ここ)に、一切衆生を救わせ給うとしては、神の御名に於ては、其(その)格位に対する神律上、或(ある)程度より下らせ給う事は、不可能であるから、止むを得ず、神界より下位である仏界に、顕現され給うのである。而(しか)も菩薩位は仏界に於ても、低位であるから、如何なる卑しき、賤(しず)が伏屋(ふせや)でも、奉斎する以上、鎮まり給いて、御守護被遊(あそばさ)るるのである。随而(したがって)、正しき事は、凡(すべ)て受入れ賜うのである。(『鰯の頭も信心とは大いなる誤りである』より) (後略) |
この御教えは、昭和10年10月21日となっていますので、時代背景を考慮することは勿論、神様の御出世の段階を拝察せねばなりません。そして、『みくらたなの神様』という御存在が光の球(メシヤ様の腹中の御存在)へ魂として御宿りになられたことで事態は一変したことを認識せねばなりません。その時点で代理神という御存在を介さず直接拝する時を既に迎えているのです。そのことを、弟子達が浄霊の奇蹟を裏付けとして整えてゆかねばならなかったのです。
ましてや、信仰形態がメシヤ様御自身に関わることですので、御自らなされることではないことは自明の理でもあります。弟子達に委ねられることは当然です。そうしなければ『メシヤと呼ばれることになるかもしれない』という御言葉を発せられる訳がないのです。
また、こうした構築がなければ、このように物質文明が発展したにも関わらず、精神文明の発展が遅れたままに過ぎるばかりとなります。その認識が浅かったことは残念でなりませんが、今後根幹となる御教えの編纂を進めつつ、本来の御神業推進を一層進めてゆくことを企図しております。