信仰の始まりというものが先祖供養

私は世界救世(きゅうせい)教の専従者時代に幸いなことに当時の教会長、支部長になったご家庭で育った専従者(当時、常任理事になっておられた方々もおられました)に「メシヤ様と御縁をいただいて、家庭が信者になったという、その変化は何からだったのですか」という同じ質問を大勢の先達のご家族に問い合わせてみました。そうしたところ、まず「家に仏壇が来たことが最初だった。」あるいは「仏壇の中のお位牌が整理されたことが、最初だった」という返事が大半でした。御教えに基づいてそういうことがなされたのだということが、出発でした。

このことを考えて行った時に“日本の仏教がどのようにして日本に定着して、そして、仏教を通して先祖供養がなされているのか”という考え方の基に先祖供養ということに取り組んでいかないと、私達は“道を踏み外してしまう”ということを、専従者時代に私は強く思わされました。

それはどういうことかと言いますと、本来日本というのは、伊都能売神皇様時代に神道の基が創られておりました。そして、それに基づいて慰霊というものが日本には出来上がっておりました。しかし、その頃は木片、木の板に先祖の御神霊名を記述して、先祖供養をしておりました。一番尊い御神業を担った方には命という「みこと」を付けて、普通に人生を30歳以上まで全うした方には「毘古」「毘女」を付ける。そしてそれ以外の方で15歳以上生きた方には「比古」「比女」を付けるような形式ができておりました。

しかしながら、『夜の時代』になるために、素戔嗚尊が朝鮮半島から押し寄せてきたために、伊都能売神皇様はインドに降られて、お釈迦様に仏教を教えられた訳ですが、仏教が日本へ逆輸入される時に中国を通って来て、中国で儒教を拾って儒教と仏教がくっついてまいりました。そのために儒教の形式であります、“黒塗りに金泥で記す”という今のお位牌の形式になって入って来ました。

日本で元々木の板に記述していた御神霊名の書き方よりもより立派なものであるということ・・・、“こんな良いことは、すぐにやろう”という日本人の性格のためにお位牌がすぐに定着して行った訳です。

“それほどのものであるにも拘わらず、それに代わるものをどうして作って行くことができようか”ということをまず考えながら、進んで行かないといけない部分があろうかと思います。

勿論、幽世大神様もかつては國常立尊様が裁かれておりましたけども、大國主尊様が裁かれております。大國主尊様をズーッと、見つめて行きますと、素戔嗚尊から数度迫害を受けた御方でありますので、素戔嗚尊から迫害を受けるとは一体何かと言いますと、その姿勢に異議を申し立てたということでありますので、そういう方が現在霊界で審判を担っておられる訳ですので、その御存在に向かう姿勢を私達は気付かないといけないにも拘わらず、形式のみに囚われてきた部分が今までの組織にはあります。そうしたことを整えつつ、本来の慰霊の仕方はどういうことかということを、根底に置いて川延さんと話し合った結果、霊界から数々のお知らせをいただきながら、現在を迎えていただいておりますので、大変ありがたいことだと思います。

 

平成25年12月メシヤ講座より

 

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