モラロジーとは、「最高道徳」の存在と内容を、科学的に説明した学問
10月を迎える前に意義深いことが起きました。
私が4歳の際にネフローゼで医者から見放され母の伯母から浄霊をいただき命を継ぎ足されたことは、何時もお話していることです。その伯母は、世界救世(メシヤ)教時代の昭和29年に結核で苦しむ親戚を救うために福岡から大分県玖珠町に移り住み、この土地に初めて浄霊を広めた人です。そして、伯母の寄宿した家が布教施設となり、大勢の方々が御神縁をいただきました。勿論、私もその家でお守りを拝受しました。
実は、その伯母が亡くなった後、布教施設を提供していた一家は昭和46年前後の大騒動を期に当時の教団に見切りをつけモラロジー(道徳科学)に移ってしまったのです。そのため御直筆の御神体や信者さん方のお世話を母が引き継ぐ形になったのでした。それからは親戚付き合いはするものの信仰については語り合うことはありませんでした。
ところが、9月末、身内の葬儀に関わることと我が家の慰霊祭に関連して、本部を視察する話になり、十月度本部一日祭に母の従兄弟夫婦(母の伯母の甥夫婦)が参拝することになったのです。
祭典40分前に到着して、本部建物を隈無く視察して参拝に臨みました。そして、およそ40数年ぶりに御神前に額づき、祭典後は初めて玖珠の地に浄霊を広めた頃からのことを語り合いました。時間がアッという間に過ぎるので、頃合いを見て「浄霊力拝受お願い」の話をこちらから持ち出しました。「モラロジーも我が家が玖珠町では先駆者なので、会員の手前・・・」と話すので、「今は宗教宗派を超えて浄霊力が授かります。ただし、『明主様』と唱えるのではなく『メシヤ様』と唱えてお祈りください」とお話しして、浄霊力を拝受することと入会することの違いを説明しました。そのことを良く理解して「浄霊力拝受お願い」書に記入し、共に御神前に奉告申し上げました。
本部を後にする姿を“再び浄霊に取り組んでいただきたい”と念じつつ見送ると、母の従兄弟夫婦の口から「メシヤ教」という言葉がスーッと何の違和感なく再々出たことが私の脳裏に蘇りました。同時に、“メシヤ様御昇天後の教団の変貌が多くの方々の道を違(たが)えてしまった”という思いが突き上げてきました。そして“メシヤ様の御神格の御出世を畏み、『主神(ヱホバ)』様直接の御啓示という認識を深めさえしておれば、御教えの実践そのものが異なっていたに違いない”という思いが込み上げて来て仕方がありませんでした。
この出来事は、一昨年6月に『文明の創造』を上梓し、今年6月の『主神様とメシヤ様』上梓を皮切りに『天国の福音書』続篇として、『宗教改革』『医学革命』を進めるための御論文を順次まとめて形に表わしているからこそ、許された事象のように受け取れました。それは、モラロジーHPの説明文を読めば尚更感ずることでした。紹介文には次のように記述されています。
【廣池千九郎は、長い年月をかけて、生命の進化にも通じる、道徳の本質を発見しました。それは、私たちの社会や文化を構成する、精神的な基本要素でした。私たちは、道徳の本質を通して、人や自然とつながっているのです。
千九郎は、その力を最上の状態で活用する理論と方法を、人類の師と呼ばれる聖人の事跡に求め、体系化しました。そして、そこで見いだした質の高い道徳性を「最高道徳」と名づけました。
モラロジーとは、この「最高道徳」の存在と内容を、科学的に説明した学問です。この質の高い道徳性は、本当の意味で人を解放する道を示しています。千九郎が目指したのは、伸びやかで生命力に満ちた、新しい科学なのです。】
こうした文言を目にすると、メシヤ教の信者さん方に毎朝拝読していただいている御教えに
『神とは、言い換えれば完全なる人間という事である。故に人間は、努力次第で神にもなり得るのである。そうして、本当の宗教の行(や)り方は、一歩一歩完全人間、即(すなわ)ち世に言う人格完成に近づかんとする努力の生活であらねばならない。
然(しか)らば、完全人間とは如何なる意味であろうかと言うと、真理即ち神意を骨とし、人間生活を肉と見るのである。即ち如何なる不正にも誘惑にも動かざる確固たる精神を内に蔵し、常に天空海闊的心境に在って、日常の言動は融通無碍、時所位に応じて何者にも拘泥する事なく、千変万化身を処すべきである。又、規律を尊び、怠惰を嫌い、万人を愛し、人に接しては春秋の気候の快適の如く、何事にも極端に走らず、人に好感を与える事を之(これ)努め、親切謙譲を旨とし、他人の幸福を念願し、人事を尽くして、神意に任せる態(てい)の信念を以って進むべきである。
人事百般完全は望むべくもないが、一歩一歩その理想に近づく努力こそ、人として最高最貴のものであり、斯(かく)の如き人間こそ生甲斐ある真の幸福者と言うべきである。
勿論、信仰の妙諦(みょうてい)も是(ここ)に在るので、此(こ)の様な人間の集団こそ地上天国でなくて何であろう。』
と御示しいただいています。この御教えの実践を、後継の指導者がメシヤ様御昇天後に努めて行くことを唱道していたならば・・・と強く思わされます。これは自戒の念を込めて記述することですが、手を翳(かざ)しさえすれば奇蹟が許され続けると自分を特別扱いするようになり、御教えを学び真理が解き明かされて人の知らないことを知るようになると人を見下すようになり、やがて慢心峠を越して自分が何れかの神仏の生まれ変わりのように勘違いを起こすようになってしまいます。
唯物思想は創意工夫を重ねて努力するのに反して、鮮やかな奇蹟が逆に怠惰を生むことになってしまうのです。それはやがて『教・論・律』を確立する方向ではなく、自分勝手な解釈により社会迎合へと傾いて参ります。
メシヤ教はそれを防ぐために、メシヤ様を神習って参拝の折には先達者のみが祝詞奏上を執り行い、御神名の奉誦を皆で執り行うようにしているのです。絶えず神様に真向かう緊張感を維持するためにです。その姿勢作りも兼ねて現在『祈りの栞』も改訂して上梓する作業を進めています。また、メシヤ様の御精神を現代に求める弛まぬ取り組みを進めているのです。