質疑応答7〜浄霊と医療
matsuki それが一つの側面であるとすると、別の側面もあるという事でしょうか。
楳木先生 そうです。その、もう一つの、全く違った側面を考えて行くと、もう随分前の事ですが、自民党の、党本部の役員と話し合う機会があった時に、開口一番言っていたのは、「岡田茂吉教祖のお蔭で国民健康保険が出来た」という事、この点を、非常に強調しているのです。それは、浄霊で病気が全部良くなってしまうと、医師会が困るという事がきっかけになって、国民健康保険が出来た、しかも、国民全員が入るという、世界に誇れる制度を作り上げました。これは、どのような境遇の方でも、生活に困窮する事無く、医療を受ける事が出来る制度が出来た、それが、岡田茂吉教祖のお蔭である事を強調していた事を、こういう話をする時に思い出すのです。
matsuki 浄霊で病気が治り過ぎた為に、皆が気軽に医療を受ける事が出来る様な制度が出来上がったという事は、ある意味、作用と反作用の関係でもありますね。
楳木先生 そういう、対立線上で捉えるだけでなく、大局的に見た歴史の中で、岡田茂吉教祖が果たした役割というものを考えて行くと、メシヤ様が御出現したお蔭で、国民健康保険制度が出来たと捉えている人々が非常に多いという事もあります。考え方においては、地上天国が出来る過程においてまずは必要な過程であると考える事が出来るのです。
matsuki まずは、国民が、経済的負担が少ない状態で医療を受ける事が出来る時代を経る必要があるという事でしょうか。
楳木先生 メシヤ様の主たる願いは、「病・貧・争」を解決して行くという事、人間の不幸の最大の原因は病気であり、病気になると、働けなくなるだけでなく、医者にかかる為には莫大な出費が必要となり、生活が困窮して行き、不幸が増大して行く、それをなくす為に、まず一番の源は「人間の健康」を主眼に考えていた訳で、その精神から行くと、現在の国民健康保険制度は、病気になって不幸になって行くという要素の一部分は解決していると言えるでしょう。
matsuki それは、病気になると高額な医療料金がかかるというそれまでの状態が改善されたという事で、金銭的な側面が大きいという事ですね。
楳木先生 そうです、金銭的な面という一部分は達成しています。しかし、それは、本来の健康ではありません。メシヤ様の精神を現代迄推し進めて行く上においては、病気になっても生活が困窮して不幸になる事が少なくなったという、大まかな体制が整っているので、今度は、我々は「真の健康」を得て行く時代に切り替わっているのだという事を考えて行くと、薬によって延命が出来た、あるいは手術によって延命が出来たという事は、過渡期としては貴重な事なのだという風に判断する事は出来ます。
matsuki 薬毒を説く事と、医学、医療を否定する事を混同しては物事の本質を見失ってしまうという事でもあるという事でしょうか。
楳木先生 これについても、先日、循環器系の外科医が、手術をして、血管の悪い部分を取り除いて、良い部分をつなぐ時に、全てを縫合するのではなく、数カ所しか縫合しないという話をしていました。そうすると、血管同士自らがくっついて行くという事で、その事によって、また、正常な生命活動を維持する事が出来る様になります。ですから、医者は患部を取り除くが血管の再生は自分の力で行っているのです。言わば、肉体は自らの能力で修復しているのです。そういう事がわかっている医者は、本当の医療とは何かという事に気持がシフトしているのです。そういう見地から見ていくと、浄霊の役割がより一層明確になって行くのではないかと思います。
matsuki 何事も広い見地から捉えないと偏ってしまいますね。浄霊の役割というものを、只、限られた、一部の人だけのものにしてしまう事は非常に勿体ないと思います。お話をお伺いしていて、自分も、絶えず意識していなければついつい陥りがちな傾向だと思いました。
楳木先生 私達が浄霊を手にしている以上、それだけ大きな視点で、長いスパンで考えて行かないと、本当に、浄霊を理解して、浄霊を布教して行くという事につながって行き辛いのではないかと、今の話から、そういう事が感じられるのです。
matsuki それでは、メシヤ様の時代以上に医療が全国民に普及している現代では、浄霊を知る初期の段階では、例えば、医療を受けながら、同時に浄霊を受けるという場合も、当然あるという事ですね。
楳木先生 現代では、そういう事も、あっても仕方がないという事です。ある大学の研究者で、害にならない薬を日夜研究中である、と強調する人がいました。害にならなければ薬として機能するのか、という思いがありますが、ともかく“害にならない”という表現を用いること自体、薬害は認知されている時代を迎えているということです。
matsuki 浄霊を受けながら、医者にも通いつつ、少しずつ薬を減らして行くとか、浄霊で病気が治癒して行く状態を体感して行くとか、また、浄霊をしてから医者に行き、いつの間にか患部が治癒しているなど、医療と浄霊の両方が必要だという事でしょうか。
楳木先生 「必要だ」という言い方ではなく、「仕方がない」という事なのです。たとえば、歯の治療や命に関わる怪我の場合は仕方がない部分もあるのです。
matsuki 結局、決して、薬や医療によって助かったのではないという事を説明する迄は、多くの段階を経なければならない訳です。それでも、いろいろな奇蹟を見せられても、どうしても浄霊には抵抗があるという方が親戚等血縁者にいた場合、まあ、こういったケースは多いと思うのですが、こちらとしては、「これは、医療に頼らずとも浄霊で治るのに」と思っていても、そこは、本人の意志を尊重するしかない訳なのですけど、身近であるが故に何とかしなければと考えてしまう事が多々あるのですが。
楳木先生 メシヤ様のお立場というものは一貫していらっしゃって、真理を教えるけれども、選択は相手の自由であるという事です。私達の様に、メシヤ様に続いて御神業に取り組む者としては、やはり、その立場を貫いて行くしかありません。
matsuki わかりました。いろいろな方々の立場を受け入れつつ、それでも、真実は一つなのだから、それを伝え続けて行くというスタンスで、今後も取り組ませて頂こうと考えています。
楳木先生 私達にとっては、「メシヤ様の御精神を現代に問う」という姿勢が一番大事なのです。現代に問いかけた時にどういう事が言えるかというと、メシヤ様が、現代史の中で果たした役割は何なのかという事を絶えず整理しておかないと、私達の信仰は偏った信仰になってしまうのではないかという事です。
matsuki 国民健康保険ですら、メシヤ様がいらっしゃったから出来た制度だという様に考えると、それを対極において、対立軸にする考え方が大変偏ったものであるという様に見えて来ます。
楳木先生 そうです。何事も、敵対する軸の中に置いてしまうと、薬を飲む人と浄霊を頂く人が別々になってしまう。私達は人類愛を持って生きているのですから、そうした排他的な立場をとるものではないのです。また、惻隠の情を持ち続けねば人として美しい人生を歩んでいるとは言えません。
matsuki そこは、決して立て分けてはいけない部分ですね。それぞれの立場、スタンスを認めながら、それでも、浄霊の奇蹟、素晴らしさは伝え続けなければならない。
楳木先生 そして肝心要なものは、『薬が病気を作っている』という御教えです。この御教えを理解していただくために、私達が説明する場合、薬が細胞、遺伝子レベルでどのような影響を与えるのかを把握しておかねばなりません。少なくとも、メシヤ様御在世時代よりもそうした研究報告が数多くありますので、その研究成果をメシヤ様の御教えに照らして、『宗教と科学の一致』という観点から整理してゆかねばなりません。それが時代性というものです。
matsuki 整理して行く為には、ただひたすら御教えを読むという行為だけでなく、時代性の中で、幅広く学習し続ける事が必要だという事でしょうか。研究報告が数多くあるのに、それを知らないと、解釈そのものが時代遅れになってしまう。
楳木先生 時代の背景には何があるのかと言うと、主神様の御経綸というものがあります。主神様は、『この地上に天国を樹立すべく、太初より経綸を行わせ給いつつある事』を私達は信じているのですから、その御経綸を信ずる上において、解釈をもっていかないといけないのです。
matsuki そうなってくると、まずは、健康保険制度が出来た為に、病気になって不幸になる人が激減したという事、これは、地上天国を樹立して行く上においての、一つの過程であるという解釈ですね。
楳木先生 そして、もう一つ、教義の中に、『神はその時代々々に必要なる人間と、必要なる宗教を顕わし給い、それぞれの使命を遂行させ給うのである』とある通り、その時代時代の人の叡智によって、地上天国への制度を着々と作っている訳だから、国民健康保険というものも、その制度の中の一過程として存在しています。こういった事を積み重ねていくうちに、本当の地上天国につながって行くのです。
matsuki そういった広い視点で物事を捉えて行かないと、浄霊というものを持っているが故に、一旦対立軸にはまってしまうと、一般社会から狂信的なイメージを抱かれる恐れもあるという事がわかりました。
楳木先生 何事も主神様の御経綸という立場で物事を見て行かないと、そういう広い見方が出来ないので、尚更「主之大御神守り給へ幸倍給へ」と唱える事が大事であるし、唱えた人間は、それだけの大きい物事の捉え方、考え方を持たないといけないという風に解釈して頂けると、信仰を求める上において、非常に有意義なのではないかと思います。
(2009年8月9日メシヤ教浜松支部にて)