メシヤ講座で取り次いだ『道法禮節』の原本
一方、日本人がそうしたことを実行し続けるために参考にしていただきたい内容が、日本の神様がお釈迦様に伝えた内容の一つとして引用しているものです。それは現代においても不可欠な内容でもあります。メシヤ講座で取り上げた『道法禮節』は現代においても最重要課題です。2月度拝読の『伊都能売神』の内容を深く知るためにも確認しておいていただきたく思います。
【御教え『観音講座 第二講座』内『道法禮節』
(昭和十年七月二十五日より)】
「道」 ミ-体-身
チ-霊-血 伊都能売 又は観音である。
道はあらゆるものゝ通るべき筋。日月が東より西へ行くにも軌道がある。一切は道により成り立ち進んで行く観音行である。道とは首に(しんにゅう)、首は元首、人民の頭、首斯の如くに之をかけたのだ。非常に意味がある。
「法」
観音会は之を全世界に判らせる御用なのである。天地の法に外れねば総て旨く行くのである。天地の法律の事(造物主が造った法律)道法(観音の法律)完全無欠の法の事である。
法「水を去る」と言う字。火なり(ホホ)水臭い水気があるとて水は正しくないのである。ヒはホにして炎、ホのホとなる。手も触れられざる厳として犯すべからざるもの(水は融通がきく)。
「禮」
神は順序なり、共産主義は之を打破らうとしている。軍隊も禮儀のある為に強いのである。禮儀は順序から出たもの禮儀なくば順序たたず。
禮は豊を示すと書く。余裕ある事、上流の金持が(富者)禮儀正しく貧者は正しからず、自ら階級あるのが本当である。禮儀あれば貧乏無くなるのである。親鸞には弟子一人もなく皆御同行なりと言うたが、日本共産主義の一番初めの人なり。其のくせ弟子に○○等と言うのがあったのである。
「節」
節なくば総て物は進行せず、春、夏、秋、冬も節なり。観音運動にも節がある。節を越えると進行する。一時的に止るのは節ですから止っても心配は不要である。音楽でも節がある為非常によく聞えるのである。国家の戦争も節です。日本の日清、日露、欧洲大戦、満洲事変等が節で、この節の為日本はよくなった。節は勢を止める為一層強くなる。伸び放題にするのは悪い。止めると勢が強くなる。節を知らぬ者は途中でくたびれる。節なければノッペラボーで弱いし折れる。
以上の如く、これから道法禮節を開示するのである。なんでも道あり法則あるならば法の通りに座し法の通りに歩き行い寝るにも法あり。それによって順序立ち行く。 又何んでも節に合せて行えば旨くいく。これを立派に行えば観音行の出来た立派な人となるのである。是を二千六百年前に釈迦が説かれたのである。
【御教え『苦集滅道 道法礼節』(栄光百二号 昭和二十六年五月二日)】
右の題目は、勿論仏語であるが、此意味は現在に於てもよく当嵌まるから、それを解説してみよう、苦集滅道とは読んで字の如く、苦が集まる、即ち苦しみが多いと道が失われるという、人間誰しも苦しみが余り多いと自暴自棄になるばかりか背に腹は変えられない式で、道に外れる事をするようになるものである、よく曰われる事だが、泥棒にも二種類あって、本当にズルイ奴と、貧に迫って悪いと知りつつも、苦し紛れにやる者とがある、又闇の女でもそんな事をせずともよいのに、好んでする者と、切羽詰って嫌々やるものとの二種があるのも同じである。
此弱点を利用して宣伝するのが、彼の共産主義である、従って政治の理想としては、困る者、苦しむ者を作らないようにする、それが犯罪を減らし、社会の秩序を保つ上に、最も根本方策である、恒産あれば恒心ありという言葉も、よくそれを表わしている、本教の理想である病貧争を無くすという事も、それ以外の何物でもない、としたら何よりも先ず健康が原であるから、健康人を増やす事こそ問題解決の鍵である。
次の道法礼節であるが此事も現代によく当嵌っている、道法とはいう迄もなく道であり法であって、道とは道理に叶う事で、道理に外れる為に人間同志の悶着や、家庭の不和、社会秩序の紊乱となるのである、法とは人間が作った法律のみではなく、神の律法もあって之は目には見えないが、絶対犯す事が出来ない、人間諸々の災は、悉く神の律法を犯す為の刑罰である事を知らねばならない、実は此刑罰こそ人間の法律よりも恐ろしいと共に、絶対免れる事は出来ないのである、勿論、死刑もあるのであって、それが災害による死、病死等凡て神律を犯した為の刑罰死である、そうして凡ゆる物にも法がある、即ち法とは一切の規準であり、秩序である、判り易く言えば、人間の為すべき事、考うべき事はチャンと決っておって、例えば政治家は政治家、教育家は教育家、宗教家は宗教家、芸術家は芸術家、官吏でも、商人でも、医者でも、男でも、女でも、如何なる人間でも、為すべき事、為すべからざる事は、一定の法則があり、それを守る事によって順調にゆき、栄えるのである。昔から法を越えるなというのもその意味である。
次の礼節であるが、之こそ現代人には最も適切な言葉である、特に此点昔の人よりも大いに低下している、私は日々多くの人に会うが、真に礼節を弁えているものは十人に一人もないといってよかろう、然し何と言っても信者諸君は一般人とは区別がつく程よいには良いが、只信者同志接触の場合、まだ物足りない点が見えるので、今一層向上して貰いたいのである。
然し現在のような煩雑な社会生活では、思う通りの礼儀は行われないから、或程度は致し方がないとしても、注意すべきは民主主義の履き違いから、若い人達には、上、中、下、無差別式の考え方の者がよくあるが、之は困ったものである、成程昔のような士農工商的の差別主義も間違っているが、今のような悪平等的行過ぎも間違っている、特に遺憾でならないのは学校教育の行り方である、余りに自由主義の為、放縦に流れ、師弟の差別さへないのをよく見受けるが、此点教師たる人も大いに考慮の余地があろう、勿論昔の軍隊式も困るが今のズンダラでも困るのである、要は偏らないでよく程を守り、中性が肝腎で、教育の方針も茲にもってゆかなければならない事は言う迄もない、礼節という意味はそれであって、既に古人が喝破しているのであるから、現代人としてもそれに愧じないようにすべきである。
【御教え『道理に従う』『世界救世(メシヤ)教早わかり』(昭和二十五年十一月二十日)より】
法の字も解釈してみよう。法の言霊は、ホは火であり、オは水であるが、言霊学上オはホに含まれて了う。之はオの水によって火が燃え続ける意味である。又、文字は水を去るとかくが、之は水は緯へ流れるから乱れる憂いがある。従而、水の働きを去れば経となり、厳然たる不動の意味となる。法は犯すべからずと言う訳である。