平成27年5月 体験報告
≪体験報告≫
出雲支部 新田逸男
松原出張所 武田まゆみ
鎌倉支部 T.Y
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皆さん、「本部御神体御奉斎」並びに「新本部竣成」の記念大祭、誠におめでとうございます。今年前半は行事が続いておりますが、遠路はるばるこうしてご参集いただきましたこと、心より感謝申し上げます。
主神様、メシヤ様に謹んで参拝させていただき、強い御光をいただけましたことを実感しながら、ただ今は3人の方々から体験報告をしていただきました。
最初に報告いただきました新田さんは昭和56年世界救世(きゅうせい)教に入信されて、その後教団浄化から教団護持委員会の男子信徒の立場で、ズーッと取り組みを進めて来られた方であります。2人目に発表された武田さんは天○○○会で資格者をされていてメシヤ教に繋がられた方であります。最後に報告いただいたTさんは世界救世(きゅうせい)教で幹部所長として御神業を担われて来られた方ですので、Tさんの発表を聞いていますと、発表というより布教所長の話を聞いているようで“もう私が何か言う必要もない”と思うくらい整理された話をしていただきました。
3人それぞれ男子信者、資格者、そして幹部専従者のお立場から、メシヤ様をズーッと見つめて信仰を続けられてきた内容が“良く伝わってきたのではないか”と思います。
実はこの大祭を前に、神様から色々と御指示を受けて各地をお参りさせられている方が訪ねてきました。今回は喜界島、高千穂等回って来られました。当初メシヤ教の本部に来るつもりはなかったそうなのですが、何度も関係の皆さんから「どうしても行け」と言われたそうで突然訪ねて来たのです。
それで「どうしてメシヤ教の本部に来ることになったのかわからない」と再三言われますので、それなら“何しに来られたのかな”と私も思ったのですが、実は新田さんが最初に報告してくださったように出雲、取り分け山陰地方の御神業についてどうしても伝えるべきことが神界からあったようで、平本先生の「神言忘備録」というものを内々で出しているのがありますが、それを私に渡すために神様が寄越したのだ、ということが帰り際になって判りました。
このために神様がメシヤ教へ来るように仕向けたのだということです。
その人は高千穂から来られるのに「大分駅のすぐ近くにある」と聞いて来ているものですから、大分駅から電話してきまして「もうすぐ着きますがどちらですか」と言われますので、「大分駅からですと久大本線に乗り換えて博多へ向かって一時間少々走らないと来れませんが・・・」と言いますと「そうなんですかあ」と言って「それじゃあもう来ませんか」と聞きますと「いや行くようにしてますので」とのことで来られました。
それでその「神言忘備録」を読んでいきますと、平本先生は『光の道は世界に通じる道だ』ということで『光の道教会』をメシヤ様から拝命されました。そのことを読み返してみますと、御教えや御講話録の中でははっきりしていないところを平本先生がメシヤ様から直に聞いておりますので、解けないところが大部解けたような、しかも平本先生の名前は直子で大本教の出口直教祖と同じ直です。大本教の場合は荻(おぎ)で出発して平本先生は萩(はぎ)で布教を出発する。荻(おぎ)は『夜の謀(はかりごと)』のところなんだ、と。そして萩(はぎ)は『昼の謀(はかりごと)』のところなので本来メシヤ様直々に萩へ行かないといけないのですけれども、どうしても行けないので『あなたは私の代理で行くのだ』ということで説得を受けて行かれたようであります。
しかも、行く時に景仰の中に書かれています布教三訓の中身をメシヤ様から直に示されて、そして、布教に出かけた内容が途切れ途切れのところがある文章ではあるのですが、鮮明に蘇えるように迫ってくる内容でありました。
更に、神素戔嗚尊と瓊瓊杵尊が十万の兵を率いて上陸した際、一緒に萩に上がったのだ、というようなことまで直にメシヤ様からお聞きになられたようであります。
ですから、この萩の地をなんとかメシヤ様の御光によって・・・それ以後戦いの好きな国になってしまいましたので、もう一度『伊都能売』に戻して、そうして平和な日本を取り戻すためには『萩は大事なところだ』ということで、再三メシヤ様からお言葉をいただきながら御神業を進められたようです。御在世中からの勢力争いの中にも巻き込まれて、その都度メシヤ様から何と言われたかと言いますと『お前は誰の弟子なんだ、私の弟子だから私に報告しなさい』ということを何度も言われたようであります。
こうした内容が“メシヤ様という御神格を認識してメシヤ様に直に太く繋がっていく”というメシヤ教の方針に繋がっていることは勿論のことであります。しかも、そういうメシヤ様の切なる御心を弟子達に伝えた内容が根底にあるために、今メシヤ教はそういうことを目指している訳であります。
魂の根っ子にある“メシヤ様の御神業にお仕え申し上げたい”との願い
3人の方が三様に報告していただいた、その中身というのは、ズーッと「メシヤ様と御神縁をいただいたからには、メシヤ様の御神業を担いきる」ということが魂の根っ子にある訳であります。魂そのものは“メシヤ様の御神業にお仕え申し上げたい”と思うのですが、所属した組織とか縁をいただいた上司の方々の様々な思惑によって自分が“魂の底からメシヤ様の御手足としてお仕え申し上げたい”というところへ中々行けなかったのであります。
16年前の本日、主神様の御神体を前の本部(私の実家)で御奉斎した時には、僅かな人数で御神体御奉斎式を執り行わせていただきました。そこから少しずつ心ある方々が参画していただいて、参画していただいた方々の誠とその信仰心によって、次はその方々に繋がる霊線によってメシヤ様の御光が行き渡りつつ段々とこうして大勢の方々がお集まりいただくようになりました。私達がまた、更にメシヤ様を求めてメシヤ様と自分との繋がりが太くなって御光が注がれてくると、そこから更にまた霊線に繋がる方々にメシヤ様の本来の御光が行き渡りまして、そして、その方々がまた繋がる。この積み重ねでない限り御神業というのは拡大されていかない訳であります。
拡大されていきます時に取り組ませていただくことは・・・。
例えば今頻繁にフランスから北岡さんの所へメールが届いて、それを訳していただいて私のところへメールが届きます。その質問に対して私が日本語で返事を書いて北岡さんがまた訳してフランスへ送ってくれます。
送るとその日のうちにまた次のメールが届くというような具合です。その答え方がなかなか難しいものがあります。“主神様の御神体をいただきたい”ということと“メシヤ様のことをフランスに広げたい”という思いが切々と伝わってきます。一番興味を持っているのはやはり『浄霊力』です。『浄霊力』が更に強まって大勢の人に『浄霊力』を授けて行きたい、ということです。
同時にこちらから伝える内容は、折角浄まった魂あるいは自分の体が、再度汚れてしまったり魂が曇ってしまうとですね、幸せというのが広がっていかないので、そうした時に大事なことは食生活だけではなくて“日々の心言行をどのように清らかなものにしていくか”ということであります。どうしても『浄霊』だけで広まっている場合には、メシヤ様の教えの実践が疎かになる嫌いがあり・・・、魂が再度曇らない、また『霊体一致の法則』で体を汚さないようにして魂を曇らせない、という取り組みをしていかない限り世界平和は生まれない、ということを返事しまして、それに対してまた夕べ夜遅く質問が来ているのですけれども・・・。(笑い)
少しずつ体を汚さない、魂を曇らせない取り組みが世界平和に繋がっていくか、という質問が次に来るだろうと想定して、次に書く事を決めているのですが、結局は戦争というのは精神病ということですので・・・。
そして、その精神病の原因は薬毒でありますので、薬毒を排除しない限り人類の健康も勿論ですが世界平和は実現できません。これからより一層この『薬禍薬害』ということを広めて行かなければ行けない、と思わせていただいております。
そのことを裏付けてくれるような武田さんの発表でありました。
≪追・大祭後の報告に感動≫
Tさんは、直会の際に
「原稿を書き始めてから一週間、タール状の便が出続けました。それから、頸や後ろ頭の重みがスッキリしました。発表のように大量の薬を飲んでますから・・・」
との報告がありました。
その際、「それで脳溢血を免れましたね。有り難いですね。」とお答えしました。報告原稿とはメシヤ様からの恩恵を整理することですので、それ自体が御光に更に浴することであり、布教に繋がる道であることを再確認させていただきました。
二人目に報告した武田さんも「家庭で御守護いただいた際に原稿を書くように言われた」と述べてくださいました。御守護報告は大祭で皆さんの前で執り行うものですが、メシヤ様へ奉告するものです。これからも、どのような形の御守護でも大いに依頼したいと思います。それは、取りも直さず誠に有り難いことなのですから。
順序が逆になりましたが、一番手に報告した新田さんは帰着後に「無事に帰着した」旨のご連絡を入れてくれまして、その際、御在世時代に教会で専従生活をされていた植田さんが、善言讃詞奏上の間、後頭部が痛み続け、三拍手が済むと痛みがスッと消えた旨をお知らせくださいました。
後日出雲支部月次祭でご本人に尋ねると、「これ位(親指と人差し指で丸めて)の棒の固まりが突き刺さるような感じが続いたのです」と仰いました。これは植田家の因縁と深く繋がるものであろうと推測できます。
そして、浄霊中に閃光のように額に当たるものを感じ、思わず目を開けた際に集団浄霊の手が自分の方向へ向いていた、というのです。教会時代からこのような強烈なものを感じたことは一度もない、ということを付け加えてくださいました。
これもご本人に確認したところ「カメラのフラッシュのような鋭い光だったので、思わず“誰か撮影しているのか”と思って目を開けた」そうです。
大祭にいただく御光の強さを改めて認識させられる有り難いご連絡でした。