平成30年1月松原支部新年祭 二部 感謝奉告①

感謝報告  八尾出張所 T・K

 

  • 一年間の心境

 

こうして皆様の前で自分のことについて発表させていただくということは約1年ぶりですがこの一年間、私の場合は、独りで「神様と自分というもの」をじっくりと考えて行きなさいという感じで過ごさせていただきました。最初の頃の心境は、”神界からの新しい御教えと過去の御教えを合わせ考えても、それは「世界が変わっていく」「神様の御働きが現れる」という理論であって、また「神様がこう言うから、こうしなければならないんだ。こう考えないといけないんだ。」と言われても、それは自分の魂から分かったことでも、自分の魂で考え出したことでもないので、これからだんだんと隠れている良いも悪いも自然に出てくるだろうから、それを見つめながら自分で考えていこう、地でいこう。”と考えていました。そうして、課題の「神様と人間というもの」については、日々の参拝中に「知る」という閃きを非常に多くいただいてまいりましたが、「知る」ということだけに留まらせて胡坐をかいてきた自分がいます。”いつか「神様と自分の関係」が分かっていくなかで、真剣に求めることが出来る時が来れば、自分も主神様の分霊なので、主神様に求めれば自分に合った答えを返していただける、そもそも人間は魂に御力をいただければ自分でも分からせていただける能力を与えられているのだから、まずは「神様と自分の関係」を深めて行こう”と考えて「知る」ことを主にして求めていったのです。

 

そうしてだんだんと孤独になればなるほど、私は”心の奥底が身に現れて、それを見詰めるという最終事態が起こらなければ、心底から身をもって自分というものを分かることはできない”と思って最終段階の時を待つようになりました。その時とは一面、魂側の喜びでもありますが、同時に大量の曇りが喜んではおられないぐらい身に現れてくるので、”現実には、酷く辛く痛いものであろうな”思っておりました。

 

そうしたなかで印象深いのは、自分の親などから、「神様がいろいろどうこう言われようとも、それだけで人間が変わると、本当に思っているのか?」「人間性、ましてや組織が、そんな簡単に変われるものじゃない。」と鋭く指摘されたことでした。その時わたしは「神界からの働きで閃きという形で気付かせ、そうして目にものを見せて、やっと、一人一人が自分を自覚できて、そして変われる時がくるので、今はたとえ悪が大きい器でも、とても痛いけれど善に大きい器に変わることにもなるので、とても有難いことが来ると思っているんですよ。」と答えると、「ふむ。」と半信半疑ながら会話を終えたことがありました。

 

  • 身に起きてきたこと

 

昨年の9月に、思うところがあって、みなさんへ平安郷の紅葉散策に行きませんかと呼びかけました。”いずれ日月地の神様となると、三界一切に及ぶ力を完全に発揮される王様となる。三界も融合を始めると、霊界にある良いも悪いも一切がダイレクトに地の世界である現界に私たちから現れ始めるだろう。痛いが待ち望んだことだ。その前にみんなで地の聖地に行き、一人ひとりが心に天国を目指せるように、目で天国を見て、何か気付きをいただけたらいいな”と思ったらからでした。そうして11月23日の紅葉一般公開にみんなで行きましたが、嵐山の駅から一緒にいる人の手を脇に挟んで”私が至らないばかりにこんなことになって本当に申し訳ない”と思いながら誘導し歩いていると、肩甲骨の毒がどんどん溶けて手に降りてきたようで、左手首が痛くなり、そして帰ってからもそれが続いております。

 

平安郷に行ってから、”現実的にもう動き出していかないとな”と思って、本格的に副業を探し始めたのですが、”これはいい仕事だ”と思ったところは、今は若手が溢れている時代ですので書類審査で落ちることがほとんどで、それでも幾つか面接にまで行けたのですが、時間的に出勤不可能な時間であったり交通費が出ないなどが分かったりして、ことごとく決まらない状態が続き、現実に迫る危機に絶望的な気持ちになりながら、そうしたなかで12日9日に大祭に向けての勉強会をしたりしましたが、”人にいくら日月地の地の働きがどうとか言っても、自分自身がもう、地でこういう事自体がやれなくなるんだからな”と虚しさが募るばかりでした。この状態はメシヤ教に御縁をいただく直前の状態と同じでした。

 

未だ決まらず落ち込んでいる中、12月18日、大祭の6日前となったので”自分でも意義を考えていかないとなあ”と一旦仕事探しを止めて、ホッとしながら神様のことを考えいったのですが、”メシヤ様は、日月地大御神様という王様の働きを駆使されて、霊界にカミの明るさと浄化を増やされ、それを現界に現出させ、闇の破壊と昼の建設をされていく指揮者だから、メシヤ様と日月地大御神様を表すと、王の上のチョンで主、キングオブキングスであって、上からみれば完全の〇のなかのチョンでスとなる。メシヤ様は大日月地大御神様だ。主神様のチョンの現れがメシヤ様だ。九頭龍王のような構成、譬えて頭の考えと胴体手足、人間の構成もしかりだ。しかし大弥勒は佛名、これはまだ佛の中から見ているからだろうか”などと思って”もう少しで概念がハッキリしそうだ、寝ながら考えよう”としたときに、”そんなことを考えるのは止そう、自分はまだきちんとお詫びがきちんと出来ていないから、キングオブキングスが唱えられないことのほうが深刻だ”と思って、仕事探しも進まず、魂磨きも進んでいない自分をみて、もう布団の中で心の中は泥沼にいるような気持でした。

 

気を取り直して、また仕事を探し始め、そうしてやっと20日に、地元の零細企業で軽作業の仕事が見つかり、25日から始めることになりました。”これから地に足のついた生活をしながら修正し直そう”と思いました。朝六時に起きて、ご飯を炊いて、掃除をして、そして簡単なオニギリを作って、水筒には天然水を入れて、ご先祖様にお供えをして、ご参拝をして、そして八時過ぎごろに自転車で20分こいでいきます。しかしそこで知ったのは、仕事内容が化粧品の容器の部品を検品するために、部品の入ったダンボールを開けたり梱包する仕事だったので愕然としました。さらに職場はアジアのいろんな国のママさんたちが大半を占めており、日本語は通じませんので、仕事の上で部品を渡すにも、アルファベットと日本語の混ざった名称の部品を渡すとき、人それぞれいろんな呼び方をされるので、統一性がなくまごつきます。お昼は、簡素な広い食堂で食べますが、50人中男4人という環境で、男性たちはひたすらご飯をたべてお金のために仕事をするだけという感じで、会話もなく、独りオニギリをほおばり、そうして何とか仕事を終えて、夕暮れの寒い中をまた自転車をこいで帰っていきました。

 

帰ってからつくづく思ったことは、”あれだけ仕事を探して、化粧品という人を不幸にする仕事にしか就けなかったということは、結局自分というフタを開ければ、自分は人を不幸にしている霊層界にいるからそういう仕事にしか就けなかったのだ”と、自分のこれまでを悔やみ、そして暫く考えていった末に、”私というものは、悪人だったのだ”と強く衝撃を受けたのです。”泥沼で当たり前なのだ”ということで、その時に愕然としながら、神様へお詫び申し上げました。

 

しかし最低2週間は働いてもらわないといけないという契約だったので、思い直して、”今のこの霊層界にいるのだから今の仕事にしか就けないのだから仕方がない。同じいるならば、何を身につけていくか?だ。こういう世界の中であるからこそ、魂を輝かせ、周囲の人を感化してけるように修行を積ませてもらおう。『神格をいただく道』の実践場として、一つ一つの言葉と行動を大切にしていこう。これから世の中を救うには、いろんな悪の世界に入っていくのだから、そこでは汚れる事もすすんで動ける自分になっておかなければならない。また、これから本当に走りまわることになるのだから、かなり体力をつけておかなければいけない。自分の霊層界は低いけれども、この霊層界から向上に向かわせようと、必要な気付きと実践を与えていただいているのだ。だから感謝してやっていこう”と思って、通いました。

 

とは思うものの、現実、いろんな分からない作業に忙しくしていますと、心亡くすと書いて忙しいと言いますが、寒い川沿いを自転車でこいでいると、だんだんと「惨めな想い」というものが募ってきて、それが寒さを感じる以上に胸一杯になりました。それは自分の悪への「悔悟」の想いと同時に、過去の仕事を振り返り”今はこんな仕事か”という「驕った誇り」から湧いてきます。しかし帰って夕拝をしながら、主神様に真向かおうとすればするほど、「驕った誇り」が消えていき、”自分が悪かったのだ”と頭を下げて”御力を魂に注いでいただけますように”とお願いしておりました。

 

勤務4日目の12月28日、お風呂から出て鏡をみると、驚いたことにだいぶ胸板がついていたので、”若いころの体力が戻ってきたな”と嬉しく思って、翌日の豊中集会所でのミロク餅作りを心楽しくできましたが、計らずも土の部分が玄米を使っており土色となって、しかし失敗してブニョブニョとなりました。”まだ地が固まっていないからだな”と思えました。年が明けて1月5日、勤務7日目にアクシデントが起こりました。ダンボールを右の親指で非常に強く突いてしまい、瞬時に「ボキボキッ」と鈍い音を立てて親指が第二関節から反対にグニャリと曲がってしまいましたので、慌てて片方の手で直しました。激痛のなか”もうこの仕事をやめろ”と強く思わされた気がしました。”骨折か?”と思って左手で親指を包みながらソロっと親指の先を動かしてみましたら動きましたので、ホッとしましたが、”割けたような音がした以上部分的に複雑骨折したかもれない”と思い、数十秒間浄霊し様子をみると、幸い少し関節の骨を痛めただけの感じとなり、そのまま親指を使わないようにして仕事を続けました。しかし”完全復活まではおそらく3週間はかかりそうだし、やはりこの仕事を続けるのはダメなのだな”と思い、家に帰ってから辞める旨を伝えました。

 

その後もずっと副業を探しておりますが、ことごとく本業に差し支える条件であったり、また不採用という結果ばかりで現在があります。痛む両手をまじまじ見て、”自分のこの両手は、人を幸せにしない仕事と時間に費やすな、神様の仕事をしろということだろうか、どうするのかを問いかけておられるのだろうか?”と思えて来ました。「本気で天国をつくる気がある」ということならば、まず、本気で汚れをお詫びして、魂に御力をいただけるようにしていくということになりますが、お詫びが出来ておりませんので、そのために、自分の想念をみつめたときに、「これまでいろんな想念が積み重なって今がある」ということを逆に紐解いて、それを一つ一つ「善」も「悪」も含めて認識し直すことにしました。

 

  • いろんな「自分」が、この世で身につけてきたもの

 

私は小さい頃から親に「人間、ヤル気があれば何でもできる」と口癖のように教わってきました。社会人になってからは、理工系以外の職種はほとんど経験を積んできたと思いますが、その中でも特に、「人間の法」に沿わないお客さんや、「法」を侵す闇の世界のお客さんたちを、法に沿うように道理を話することも多かったのですが、そこは日本一の実績を維持していこうとする高いハードルの職場でしたので、いろいろ身につけたものがあります。「法」に沿わない方には簡単に論破してしまいましたが、闇世界の人たちには法の理論は通用しません。「法の網目」にいる人たちだからです。対応には命をかける覚悟を決めた「ヤル気」が必要なのです。全神経を集中させて、相手の立場での考え方と出方をこれでもかというぐらいに色々と練りに練って慎重に考えていきます。”だいたいこうだろう”という全体像が出来上がって、さらに集中すると問題の急所が分かってきて、その急所をまた全体にいろんな角度から当てはめていき、最後に一つの核心が見えてきます。それを得ればどのような理論から来ても、また脅迫されて気持ちが揺らいだとしても、筋道は通せます。あとは強い気力です。そういう繰り返しを身につけてきたのです。

 

そうして、最も自分が反省するものとしては、おかしな道理を言う人にたいしては急所をうまく説けばたいていの人は自覚してもらえ、自分の道理に固執して常識から外れている方には、長い時間をかけて一応一から教えましたが、ただ、論理性が破綻して感情的になっている方には、最終私のほうで容赦なくピリャリと抑え込むことがありました。天国になっての会社というものならそういうお客さんも自分もいないでしょうが、まだ営利の時代で、悪にたいする職種としては、どうしても延々と時間をかけているわけにはいかなかったからです。だからそれを「後悔する」ということはなく、「道理に外れた者が悪いのだから、言われて当たり前」という姿勢でしたので、知らず知らず「他人の悪には厳しい自分」を身につけていました。

 

このことが、神様の世界に入って、「神様の法」に外れたことにたいして、「御教えではこう書いてある」として、いろんな教団を厳しく指摘して批判してしまったことがあります。また、いろんな相談を受けるなかで、「道理に外れたから問題があるので、その道理を自分でよく考えて、自分で実践していくしかない」というような結論で、それは道理を知らなかった多くの人にとっては新たな知識となり感涙の励ましともなりましたが、同じ相談をされる場合、さらに詳細に紐解くのですが、なかなか進んでいかないので、「自分の問題なんだから自分で考え、自分で神様に求めるように、もっとしっかりしないといけない。」と言ってきたのです。しかし今考えると、それは「理論信仰」の範疇だったのです。ただただ問題を理論で説いているだけなのです。すぐ理論で説ける問題や、明らかに御教えと違う点を見つけるときや、御教えを体系的に捉えるなどにはいいのですが、そういう面では必要だと思いますが、信仰的な深い問題についてはそうはいきません。やがて「理論信仰のツケ」が生じてきました。私自身が霊籍を顧みることもなく、霊籍の道理だけを説いているということは、道理に外れているのは私自身だったのです。”何で自分で考えない?調べないんだ?”と思いつつ、”まあ難しい問題だからこそ、仕方ないとも言えるかな”と「あ、いいですよ。」と繰り返し聞いているうちに、親しくなっていき、「信仰の的は神様です、御教えを自分で読んでください」と何度もお願いしていても、何でも「Kさん」という信仰姿勢にしてしまい、そこで「前に話をしたでしょう。」と突き放すように言うようになったのです。これは「自分で導いていく力がなかった、共に成長をしていくべきだった」ということに尽きます。

 

御歌にありますが、美魂でこそ言霊が強く、相手の善にまで強く伝わっていく力がありますので、汚れた魂の者がいくら話しても相手の善になかなか伝っていくわけがありませんでした。霊界にいる状態でこれらを考えてみれば、本当に愚かな自分でありました。

 

神様から『神様と自分というものをじっくりと見つめ直して、自分の中にある「つもり」を一つ一つ取って、本物の信仰を身に付けてあたたかい人間になってもらいたい』と御教えを賜ったことがありましたが、今お話したようなことが起こると、「理論で冷たい自分」が出てまいり、本当に申し訳なく思っております。

 

一方、社会人となってからは、人が何か成就したのを見ては「良かったな」といいながら、”オレだってこのぐらいやろうと思えばすぐできる”と思ってしまいますが、今思い出せば幼いころに”世界中のどんなことでも、やろうと思えば自分に出来ないことはない”とかなり本気で思っておりました。どこからこんな「自信満々なもう一人の自分」の想念が湧いてくるのでしょう?そうして、褒められればどんどん走り出しますし、また気の合う人同士ならば「お互い頑張ってやっていこう。」と言うのですが、敵対心をあらわにしてきた相手には、相手にせずに走り去って、”それ見たことか”と爽快になるという、口先だけでは「世界一家」と言いながら、ずいぶんと「肝っ玉の小さい、器の小さい自分」がいました。「窓口」を去る時に、代表から「肝っ玉が小さいからなあ」と言われたのですが、その時は”何回でも誠を尽くしていろいな角度から話をしているのに”と思っていましたが、今考えると、小乗悪を包んであげれない自分は大乗悪だということが分かりました。”魂を大きくして、もっと大空のように、下に無数にある悪を包容できる大きい人間にならないとなあ”と思っています。

 

お詫びにあたり、どこからこんな「自分たち」がやってきたのかを、考えざるを得ませんでした。

 

  • アレコレ考えるうちに、「多くの悪の自分」の根源を考えていく

 

思い起こせば昨年春、神様と代表から割と長いものをいただきましたが、一言で要点を言えば、神様から御力をいただき自分の殻を破ろうとしない「現実逃避的信仰」と御教えをいただきましたが、この時は、”自分なりに出来ないなりに一生懸命やっていた心算(ツモリ)で、自分の悪をさらけ出して、そう逃げてもいないのに何故なのか?魂の奥では逃げているということなのか?”とボンヤリとしか分からなかったのです。こうして”独りでじっくりと考えてけと言うことだな”と思っていたので、暫くして、代表から、私を含めて三人に、意義に関連して御教えで調べるように言われましたが、”なんで私が…気を遣ってくださっているのかな”と虚しくなって、”他の人が役をいただいて徳を積ませていただいたらいい”と思っていました。

 

そうして一年前から考えてきた善悪のことを深めていくなかで、ある時、あまりにも悲しいニュースをいろいろ見ていくうちに涙がとめどなく流れ出てきました。”昼の時代から夜の時代にされれば闇が暗躍し、その悪がもたらしたものはいくら因果応報といえども、紛争や戦争で亡くなっていく家族たちの悲しみは、あまりにも酷すぎるではないか。陰陽の二様性はわかるが、なぜそこに善悪も当てはめられたのか、善人の科学者や発明家たちも大いに科学を発展させてきたじゃないか”という主神様への不満も入り混じった涙の問いかけでした。それは過去の文明崩壊も、これからの大峠のことも含んでいます。メシヤ様も自分が悪をつくったのではないからわからないと御教えにありますので、御神前に額づいてミクラタナの神様に口に出して問い始めましたら、同時に答えが返ってきて、質問を終えれば答えが終わっていました。それは神様の望まれるところまで善を磨くために悪があるのだという、言葉にできない大きな愛で言われたように思いました。主神様は一切の「力徳」の中心であって、無限の大恩恵をあたえられる根源の御力そのもので、人間というものは主神様の御分霊された生命体であって、無限の親が子を想うような奥知れぬ深い大愛からつくられたものでした。”人間が「真に有難うございます」ということを無限の時から無限に放たれ続けてくださっておられるのだ”ということを思わせていただきました。

 

いろいろと独りとなって組織を眺めていますと、善言讃詞のなかにある「善徳行」を積まさせて、やがて「大功徳」を与えて罪穢れをとってくださろうとしていることが分かってきます。神様に真向かう気があれば役をお与えになったりして、出来る出来ないではなく、出来なくても出来るように仕向けてくださって、神様を隠した大きな罪は神様を御出しするという大きな手柄で、曇りを減らしてあげたいという大愛を感じます。

 

主神様の大愛で善悪という二様性があるという仕組みは、人間の中にもあるのでして、自分のみならず、人間みな一人一人が同様でして、悪だけが見えてしまっているようでも必ず善があって、また裏に善が出番待ちしていることもありますし、全く悪だけということは絶対にないのですから、人間の目で悪と決めつけることはいかにとんでもないことであるかを、分からせていただきました。

 

さて、主神様の善悪が分かってきたところで、今自分で認識できた「いろんな悪の自分」について、どこから来たのかをきちんと考え始めることができました。幽界にいる元の自分と、生まれ変わりで現界にいた自分を考えますと、現界の自分が死ねばどうなるかと思いましたら、現界の自分が身に着けた心と曇りも一緒に元の自分にピッタリくっつきます。そして次はそれがまた現界に生まれてきて、また罪を犯して戻ってピッタリとくっつきます。3000年の間に10回は生まれ変わっているとすると、10人の自分が合わさったのが現在の自分ということになります。もちろん霊界で浄化した分もあるでしょうが、だいたいは地獄と現界の行き来でしょう。そうして、生まれ変わるたびに、単純な罪から複雑な濃い罪となっていき、同時に特性が熟練されてもいきますが、夜の世界においての特性はどうしても権力や金などに魅了され、それを欲するために発揮してきたことでしょう。そうして、自分を重ねるほどに、大きく濃い罪となって、大きく熟練した特性となっていって、時に大きな善もしたことでしょう。そうした特性をもっての悪と善の経験が悪への自信となったり善への自信となったりして、混合すると自信だけはあるが、結果良いことも悪いこともするということなるのでしょう。悪をもって金を得た罪、権力を得た罪、戦いをした罪、怠けてきた罪など、その一つ一つがそれぞれも曇りとなって集合して、それが今現れているだけだと思ったとき、私は、私という黒いなかから、僅かながら神様を見ていた、だからすぐに「心の岩戸」を閉めてしまって、また罪を作ってきたのだ、ということが分りました。それではザルに水で、いくらたっても自分の魂が向上することはありません。

 

そこでさらに考えると、「いろんな悪の自分」は最初どこから始まったのか?というと、「神様を見て見ぬふりをしたことから始まった」と分かったのです。神様がいるのに、いないように見るというのは、天邪鬼による歪んだ心そのものなのです。「いかなる不正にも誘惑にも動かざる」正しい国常立尊様にたいして、真向かうことが出来なくなったから、「不正と誘惑」に動じていろんな罪を犯してきたわけです。これが「現実逃避的信仰」の根源にだったと気付かせていただいたときは、心が真っ白になるほどの衝撃を受けました。と同時に、国常立尊様のことを考えました。

 

”天之常立神様が火の霊性で、国之常立神様が土の霊性で、土といっても霊にたいする体であり地でもある、天の火が地に写って地の火ともいえ、地球は薄皮一枚残して地球の中は地の火だ、薄皮もこの神様だ。火性ということだけみれば、天之常立神様は太陽の中の伊弉諾大神様ともなられ、地球の中の国之立常神様と天地一対となって、日の火と土の火として火系が二柱永遠に立っていて、大国常立神様となると、主神様の御意志の表れの主という頭にたいする御手足として、火性の陰陽の両神を駆使され様々な霊子をつくられ、それに相応すべく水素原子を基にして元素をつくる妻神様と協力して、万物の霊と体を御創造されたのではないだろうか、そうして、私たち人類の祖(オヤ)であり、また国々をつくられた国祖でもあって、私たちは太陽系の構成と神々様の体とそっくりに最高の地上生命体として創造されたので、動物ではなく神様の生き写しなのだ。そうして試行的な幾文明を経て、天にある天国を地に写すべく国常立尊様として御降臨され、不正無き善の天国世界をつくられた、それはかつてのメシヤ様だったんじゃないか、人間の創造主じゃないか、それを見殺しにした罪は計り知れない。神の天国を、地獄にしてしまったのだ・・・。自分たちの「本当の神様を退ける」想念で、霊界の地獄に追いやったのだ。しかしそれも日が陰れば陰で愚かな子のやることとご承知で、非常に苦しまれながらも、慈悲の魂を発揮され、子を心配し、完全に闇の心にならないようにと、神道では浄化の天津祝詞を作り唱えさせ、仏教をつくらせ、観音様となってでも喜びを与え、善を教え、今、御出ましなってくだって、厳しくしてくださって、さらには全部御出ましいただいければ大きな手柄を立てさせ、やがて神霊へと戻るようにされているなんて、あまりにも、大愛、大慈悲すぎるじゃないか・・・”と冷たくなった心が溶けてきました。

 

その原点の「大罪の自分」を起点に、もう一度「多くの悪の自分」を考えていきますと、「自分はいろんな不正をして誘惑に負けやすい精神を内に蔵し、自分中心の心境にあって、日常の言動はギクシャクし、時所位は構わず何事も執着しがちで、頑なに動かない金平糖のような自分がある、また神様の法だけではなく人間の法すらも軽んじて自分の都合よく生活し、口先だけは動かしてよく怠け、世界人類など愛せない、人に接しては夏冬の気候のごとく、感情に燃え理論で冷たいというように偏り、人に不快感を与えることも快感で、時に不親切、傲慢で、他人が落ちることを喜び、人事を尽くさず、神意に任せっきりの態で進んできた」ということで、神様を見て見ぬふりをして大罪を犯した自分は「地獄世界をつくってきた」ということです。

 

昼の世界が徐々に暗くなり始めると同時に夜叉龍神の力が強まり始め、不正と誘惑に負けて天邪鬼となった神様が日本に来ましたが、「昼間の善の世界が良いのか、あるいは闇の悪が麻薬性をもって暗躍する世界が良いのか」と心葛藤しながらも、結局は、夜の方を選択し、徐々に神格を落としていき、かつて当たり前だった善を非常に厳しくと思うようになり、次いで戦争好きとなった神様が日本にやってきたりして、いよいよ心も身も闇世界に入って、「多くの悪の自分が勝る、魂小さな人間」になってしまったのです。しかしもし、多くの悪を確かに認めることができて、その存在を確かに善の自分に変えていく印として、他人も同じとして互いの善悪で磨き合えば、「火水偏らない結びの神霊」へと高めさせていただけるものとも思えてきます。

 

  • 自分の「核心」を得て、お詫びと感謝

 

副業探しをするなか、今お話してきたこの原稿を、何度も何度も練り直していきましたが、だんだんと神様を見つめる時間が多くなっていきます。そうしてこの原稿について筆をとった最初は、全てを出して書いたつもりでも、何度も何度も参拝の折に思わされてはどんどん修正していくということになっていくので、そこから分かったことは、最初は、自分を分析的にみて知性で深めて書いて、沸いた感情も理性で捉えて足した程度のものであって、その奥にある魂が覚ったままの想いではなかったということで、さらに修正を加えていったのです。

 

思えば、かつて、旧教団に足を運び、御教えと異なると思って何とか変えようと、それが若気の高揚であったとしても、”自分一人でもメシヤ様の御意思を継いで地上天国をつくる”と意気込んでいたことを思い出します。しかし、メシヤ教に御縁をいただいてからは、御教えに沿わない精神性の自分は、地上天国をつくる資格にほど遠いということを知らされ、地上天国建設を担わせていただく難しさに、その想いを中途半端なものにしていきました。更に、こうして最終段階を迎えて、いろいろ自分の曇りを浮き上がらせていただいている御蔭で、次第に化けの皮が剥がれていくと同時に、”全然本物ではなかった”ということをハッキリと痛感させていただけました。

 

私は参拝中にいろいろな気付きをいただいてまりました。先日、51歳を迎えて天津祝詞を奏上していますと、”伊弉諾尊様すなわち国常立尊様にたいして見て見ぬふりをしてあれだけの酷いことをしたにも拘わらず、その神様にたいしてきちんと御詫びも出来ずに日々、平然と、お浄めしていただけますように、とお願いしてきた自分はなんと出鱈目な信仰だったのだろう”と本当に申し訳なく思えてきました。さらに多神にして一神でして、”主神様にたいしてお詫びを出来ずに、自分の悪を変えようとしてくださってきている大恩恵に真摯に向き合うことを除外して、大恩恵にたいして過去現在を感謝し未来へをお願いしてきたので、なんと形だけの無礼な信仰を続けてきたことか”と強く反省いたしました。これが人間でしたら激怒ものですが、そのような自分であっても、”魂に御力を賜り大きく強くしていただけますように”とお願いすること自体を許され、代表先生始め先達の先生方の導きで心の岩戸を少しずつ開かせいただき、この摺りガラスの小さな魂に、主神様から御力を注いでいただけましたことは、”まったく大愛と大慈悲だ”と感無量になりました。そうして、”主神様が善悪を御造りになったとはいえ、悪を選択した自分自身の弱さと罪の大きさを省みて、主神様の御目的たる地上に天国を樹立するということに、本当に、誠心精一杯、お仕えさせていただきたい”という気持ちが湧き起こってまいりました。そうして「神格をいただく道」という御教えをいただく時には、「いかなる不正にも誘惑にも動かざる」というところで、”いかなる不正にも誘惑にも動かない精神づくりを決意いたします”とお誓いしながら奉じさせていただきました。こうした自分を起点に、自分から世界へたいしてのあり方、というのがこの御教えだと思っております。

 

ご参拝が終ってから、”正しくないことをしてきた私ではありますが、心機一転、もう一度自分を蘇らせていただいて、新たな自分となって、地上天国樹立のために、新たに結集を許されて、本当の御神業を担わせていただけますように”と強くお願いいたし、そうして”地上天国建設をお誓いいたします”と決心をお誓い申し上げました。今までの決心は中途半端なものだったのです。

 

そうして主神様に心を開いていったのですが、ふと、昨年、私のことを代表が幾度か「頭がいい」と言われていたことが頭に浮かび、それでもう一度自分を振り返って、最後に、恐ろしい自分に気が付かされたのです。

 

”ずっと主神様がなぜ悪をつくられたのか考えて、それが分からないうちは正しい神様から目を反らせてきた。因縁とはいえ戦争やテロで泣き崩れる姿をみて、なんと冷酷な仕組みをされたのか、なぜ陰陽に善悪を当てはめたのか、と憤りさえ感じた。3000年前に国常立尊様たちが次々といなくなった事態に唖然とし、その事態を理解しようと考え、するとそれは主神様が闇や悪を許しているからで、主神様は悪も許されているからだ、だから悪も仕方ないのだという理屈をどんどん説いていったので、この時点から私は、正しい神様からの現実逃避的信仰を、理屈をもって正当化していってそれを広め、その時に教えてしまった人が多くの因縁の人かもしれない。しかし、正神様についていった神様もいたのであって、真実は、その時私は、昼の世界の時を想っては、闇の世界の誘惑に負けて、その世界の生活を楽しむために正当化したのだ、だからある意味堂々としていたのだ”

 

これから節分祭に向けて一層お詫びを確固としたものにするように努力してまいります。これからは、一心に主神様を見つめ、残された一日一日を、誓いが実を結ばせていただけますようにと、精一杯努めさせていただきます。そのためには、「神格をいただく道」という具体的な天国人の心にたいして、自分の悪を照らし合わせて、そのことを、「天津祝詞」と「善言讃詞」のなかの「浄め」の部分に全て当てはめると、「不正と誘惑に負けた自分」の「お詫び」と、もう負けませんという「誓い」を込めて奏上していき、他の部分は「大恩恵」ですので、大恩恵にたいする「感謝」と魂の向上の「祈願」を込めて奏上していく、そうして三月には本当に分かった「天津祝詞」と「善言讃詞」を奏上させていただけるように、毎日毎日、、「お詫びと誓い」「感謝と祈願」を祝詞に込めて、神様にお捧げさせていただくようにしてまいります。

 

振り返りますと、今の最終段階にあって、このように目指させていただけたのは、主神様、メシヤ様、そうしてメシヤ様の御手足となられている代表および先達の先生様方の、想像もできないほどの御働きと大きな愛ゆえかと思っております。ここに、これまでの一切を、謹んで御詫びし、感謝を申し上げる次第でございます。

 

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