『文明の創造』宗教篇 天国篇 (文創  昭和二十七年)

『文明の創造』宗教篇 天国篇 (文創  昭和二十七年)
本文は『文明の創造』358ページに記載されています。

 

代表先生

いよいよ天国篇に入って参りますけれども、358ページ1行目

『私は科学篇、宗教篇を次々書いてきたがこれから最後に天国篇を書くのである。』

というふうに1行目に『科学篇、宗教篇を次々書いてきたが・・・』というふうに、まず冒頭書かれておりますので、頭の中に科学篇とは一体何だったか、それがまとまっているかどうかということを振り返っていただきたいのです。○○さんが今考えていますね。(笑)

科学篇を思い出していただいた時に、メシヤ様が絶えず仰っていることは一体何かというと、『病気というのは放っとけば治る』ということが、一貫された考え方であります。『病気は放っとけば治る』と。これはどういうことかというと『浄化作用』なので、体の中にある悪いものを外に出すために浄化を許されていくわけです。そして起きてくる症状が病気なので、放っておけば治るということであります。そこへ浄霊を取り次ぐとですね、さらに一層良くなっていくわけですが、過去の世界救世(きゅうせい)教が大変残念だったのは、浄霊をいただいて良くなるのですけれども、良くなった後にまた同じような生活をしてしまうために、また体の中の毒素が溜まっていくということが起きてきます。

私も今日は髪型が変わっているのですけれども、髪質が非常に固いので、ドライヤーをかけて整えた後スプレーをかけないといけない。ガスとか一切入っていない、ポンプでスーと出る、そういうスプレーを使っていたのですが、スプレーの中に含まれている・・・やはり無添加ではないことが判明したために、これを代表が使うわけにはいかないということで使わなくなったので、一挙にこうして刈り上げてしまったのです。こうすると楽ではあるのですけれども・・・、結果的に毒を入れてしまうということを極力避けていかないと、メシヤ様からいただいた浄霊を取り次いで、浄霊をいただくことによって体の中から毒素を排泄されるのですけれども、また毒素を加えてしまうという、大変神様に対しては申し訳ない生活をしてしまうので、そういうことに踏み切ったわけであります。

まずは科学篇の中で私達がしっかり腹に入れておかないといけないことは、『放っとけば治る』という考え方であります。それは人体がそのようにできているわけなので、そういうことになっているのだ、と。そこへ浄霊をするとさらに毒素排泄が促進されるので、それで短期間で良くなっていくのだということです。だがしかし、その人その人の体調もありますし、それから体力というのも加わってくるので、それぞれその人その人によって変化の仕方が変わって来るので、一律ではないということであります。やはり自分の代だけ、自分が生まれてから今日までの毒素だけではなくて、然毒というのも加わって来るので、その人その人によっていろんな違いが出て来るということであります。(中略)




『宗教篇』の要点

代表先生

それから次に宗教篇というのをメシヤ様は書いて下さっておりますが、宗教篇というのは一体何かということであります。これもやはり自分の中で、ある程度メシヤ様が宗教篇で何を私達に教えて下さっているのかということを頭の中でまとめておいていただきたいというふうに思います。宗教篇で私達が学んだことというのは、3千年前に中国大陸と朝鮮半島から合流した素盞鳴尊と瓊瓊杵尊が山口県の萩市に上陸してですね、そして素盞鳴尊は伊都能売神皇様、当時日本を徳によって統治していた伊都能売神皇様の皇位を狙って圧力をかけて来た。そして瓊瓊杵尊は宮崎県の高千穂に潜んで日本の地で米栽培をどのように定着できるかということと、素盞鳴尊の統治が失敗した時に一挙に自分が統治しようということで待機していたということで、その3千年前の出来事から私達の魂に染み付いているのは、“武力によって圧力をかけていく”ということ、それから“人を脅迫していく”こと、そういうようなものが魂に染み付いていっております。

これがですね、信仰の話を仮に夫婦でしようとしてもですね、御教えに基づいて話すのですけれども、例えば浄化している時に「あなたが一生懸命やってくれないと私の体がどうなってもいいの?」とかいうような言い方をしてしまいます。こうした場合は脅迫しているので素盞鳴尊と同じやり方をしているということになってきます。こういうことが私達の癖として染み付いてきます。それから家の中がうまくいかなかったら、「あんたのせいだ」とか、そういうようなことで相手に責任をなすりつけていってしまう。これは職場でもそうですし、どのような場面でも、“相手を非難することによって事を収めていく”というような、そういう癖が素盞鳴尊からのですね、『夜の時代』になった中で私達の魂に染み付いてきているわけです。この染み付いたものを取っていくというのが、いわば“信仰生活”になってくるわけですね。

先程の毒素の話と一緒で、一番分かりやすいのは酒を飲み過ぎて肝臓を悪くして、こうやって支部に来てお参りに来て、浄霊をいただくと肝臓が良くなっていく。そうすると何故肝臓を悪くしたかと言うと、不純物が入った酒を飲み過ぎたために肝臓を悪くしてしまったので、まず酒の量を減らすということと、その酒の中に添加物が入っているかどうかというのをチェックして無添加のものを選んでいく。そして、しかも原料を作る時にも農薬や化学肥料が入ってないかどうかということをチェックしながら、そういう酒をもう一回たしなむ、しなおすというところまで生活を改めないで生活をしていると、また肝臓を悪くする。そして「また悪いんですよ、お願い致します。」と来てしまう。もうこれはですね、『夜の時代』の癖がそのまま残った状態を繰り返しているだけの話なので、“生活を改めていく”ということに取り組まないといけないわけです。

これが、世界救世(きゅうせい)教の指導体制の中で指導が徹底していなかった。メシヤ様御昇天後の指導が徹底してなかった内容であります。御浄霊によって一回良くなる、良くなるのは教修の時に教えていただいているわけですね。不幸の原因は霊の曇りによります。霊の曇りがあると霊層界が下がってくるので不幸になっていく。それで浄霊をいただくとその曇りがだんだん取り除かれて行くので霊層界が上がって幸せになって行くのですけども、浄霊をいただく前の生活を続けているとまた曇りが発生していきます。そして、また浄霊をいただかないといけない。“曇りを作っては曇りを浄化する浄霊をいただく”という、そういうような生活をずっと続けていると、これはもう“神様を利用しているだけの話”になってきますので、本来は浄霊をいただくことによって浄まっていくのですけれども、こうした場合は『霊が曇ると不幸になる』ということを知っておきながら霊を曇らせて行くという『罪』が発生していくので、こういう生活をしていると不幸になっていく。メシヤ様にせっかく繋がっていても不幸になっていくということが起きてきますので、要は、“霊が浄められたら、次は霊の曇りを発生させない”という生活をしていかないといけないわけなので、霊の曇りを発生させない生活とは一体何かというと、『景行』の中で、メシヤ様がずっと奉仕者とか布教師とかいろんな人と接する中で、その方々がメシヤ様の日常生活や感想とかいろんな思い出を書いておりますけれども、その中からメシヤ様の御日常を見つめて、そして私達の生活も曇らせない生活とは一体どういうことかということを心掛けていただきたいと思います。

せっかく浄霊をいただくことで霊の曇りが解消されても、さらにまた霊の曇りを発生させてしまうという生活を繰り返してしまっているので、そうしたことはこの“三千年来の罪穢れ”というところから私達は学んでいるわけです。それを改善していく生活に取り組まなければいけないということを教えられているわけです。

ですから、それでメシヤ様はまず“挨拶をしなさい、時間を守りなさい、掃除を心掛け整理整頓に取り組みなさい”とかいうことを日常的に教えられているわけですね。それなのに浄霊をいただきつつ、過去の布教所とか県本部の話ですよ、人の噂話をしたり、それからせっかく外で御用してきても、帰って来ると「あ~、もう疲れた」とか「今日は暑かったわねぇ」とか不平不満に近い言葉を吐いてしまうというようなことがあると、これは“曇りを発生させる”ということになってきます。実はお世話する側はその点をいつも見つめながらお世話をしていかないといけないのですけれども、お世話する人間もそういうところに気付いて行かないと、曇りを発生させつつ浄霊をいただくという生活になっていくわけですね。

実は今月末、一旦出張から戻ってから沖縄に行くんですけど、沖縄ではどういうことが起きているかと言うと・・・(内外共に厳しい現状がありますので割愛します。)

メシヤ様がこうした最終段階の時に21世紀に地上天国を建設すると、その設計図として書かれたものを十分研鑽してないために起きていることでありますので、なんとかそれを是正できるような方向に持って行きたいと思うのですが、その持って行きたいと思う気持ちが私の中に起きるのは、こうして皆さん方と『文明の創造』を細かく勉強してきたからであります。そういう“今までの御神業を改革していく”という意欲が燃えたぎるというのは、この御教えを拝読するからであります。こういうことをしなければそこまで強い「教団改革」という想いはずっと続いていてもですね、根底から地上天国を建設するあり方をどうしていくかというところまでは、こういう勉強会をしなければ想いが高まったかどうか分からないぐらいこの勉強会は非常に貴いものであったな、と・・・。まさにこの一行読んだだけでも感謝に気持が湧いてくるような、そんな状態です。ですから『文明の創造』を発刊できたことも良かったし、こうして皆さん方と月次祭の度にずっと勉強してきたことが本当に良かったなというふうに思わしていただいて、この一行目を拝読させていただきました。

これから天国篇に入って行くわけですけれども、やはり科学篇、宗教篇を自分の血肉にできるように繰り返し拝読し、“私が貴いと思うところはどこか”ということをまず整理して、それから、その整理したことが“メシヤ様の御心に叶うかどうか”というところに想いをもってやっていただきたいと思います。(中略)地上天国を建設するためには、しっかりとメシヤ様の御教えを拝読して、その御教えに基づいて世の中の動きを見ていって、そして「自分達はどうあるべきか?」ということを自分の中でしっかり整えて、事に処していかなければいけないなというふうに強く思わせていただいておりますので、今日の一行目からそうしたことを確認させていただいて参りたいと思います。



主神様の大経綸と天国建設

代表先生

「メシヤ講座・特選集」の今月号は読んでいただきましたか?今月号でですね、先月大阪支部で一部触れたんですけど、中身についてはですね、主神様の御経綸ということを思った時に先月の一番最後に

『実に神様の御経綸こそ一糸紊れず洵に整然たるものである。』

ということの受け止め方については、もう一歩踏み込んで話をしてなかったのですけれども・・・、恐竜によって地固めをずっとさせ、そして恐竜を絶滅させるためにメキシコのユカタン半島に直径11キロぐらいの隕石をぶつけた。その隕石はどこから飛んできたか?ということを、三重支部の月次祭が終わったぐらいから、もう一度「どこから飛ばしたか?」ということをずっと見つめていっていると、彗星の中で一番近いところはですね、一周するのが3、3年というのがありますので、彗星のスピードで1年半時点ぐらいの向こうから隕石がきたという可能性もありますし、ハレー彗星の場合は周期76年ぐらいですので、彗星のスピードで37~8年時点の向こうから飛んできたという可能性もあるし、もっと言えば太陽系の外で新しい星が生まれた時のそのかけらが飛んできたということがありますけれども、地球上からすると6500万年前恐竜が絶滅するためにはメキシコのユカタン半島にそれぐらい大きい隕石がぶつからなければ恐竜は絶滅しないので、そこへぶつけないといけないのですけれども、地球はご存知のように時速約1700キロで回っておりますので、だいたい秒速400mぐらいで、私達は移動しております。この前、宇宙ステーションに「こうのとり」が荷物を運びましたよね。あの宇宙ステーションは、秒速どれくらいで動いている?

参加者
さぁー?

代表先生
 
秒速8キロで動いている。一秒間で8キロ。シューと動いているわけ。そこへ荷物を積んだ「こうのとり」が近づいていってアームで掴んだのです。この作業は凄い精度が必要なわけなのですよね。90分で地球を一周していますので、秒速8キロで動いている。物凄いスピードで動いているところにスーッと近づいて行って捕まえてもらうわけなので、物凄い数学の計算式で、それをやっていかないといけないのですけれど・・・、それを考えただけでも凄いのですけれども、主神様は遥か彼方から何百年か前に隕石を飛ばして時速1700キロで回っている地球のメキシコにぶつけなければいけないのです。そのためには、何百年間分の計算をされているわけですので、たとえばスピードや角度ですね。地球の大気圏に入ってくる時には真っ直ぐ入ってくると隕石は燃えて小さくなってしまって恐竜を絶滅させることはできないので、角度の計算が必要なので、しかもその角度は地軸、この地軸は23.4度傾いていますので、こうしながら回ってるわけなので、そういうものを総て計算して、メキシコのそこに当てないといけないわけですね。その角度と入ってくる時の速度の計算などは、大学の宇宙工学のコースにいって計算の仕方をずーっと勉強していくのですが、たとえば、隕石などが木星の側を通る時には、引力によって方向が曲がるので、木星と火星の位置を計算して引力で引っ張られた場合、方向が何度ずれるとか計算して100年前に発射させないといけない。などといったことを計算するわけですので、主神様が投げたということは、少なくとも現在の私達の学問に当てはめていくとそれだけの数学式を持って隕石を飛ばさないといけないということが分かることなのです。そうしたことが分かった上で『実に神様の御経綸こそ、一糸紊れず洵に整然たるものである』というところを拝読した時、私達は、今の時代にこれだけ科学が発展したからこそこの文章が実感として分かるようになったと言えるかと思います。

メシヤ様の時代はそこまで科学が発展してなかったので、これを実感するというのは中々難しかったと思うのですけれども、メシヤ様はすでに21世紀を見つめて書いておられますので、科学の発展が進んだところでこの一文を理解できるというふうにして書かれていると拝察できます。そのことを理解できる人間が揃わない限り地上天国は建設できないということですので、そうしたふうに受け止めていただきたいと思います。

それからネアンデルタール人の話をしましたけれども、ネアンデルタール人が70万年前にこの地球に誕生してですね、そして3万年前に絶滅しております。一方、ホモサピエンスの系統は、今日我々に受け継がれてずっと生きているわけなのですけども、70万年前はネアンデルタール人の方がホモサピエンス系よりも優秀だったようです。しかし言語を磨かなかったために、狩猟の技術とかを伝承することができなかったのですけれども、ホモサピエンスの方は言語を磨いてきたので伝承を上手くしてですね、そして文化の根っこを作ることができた。そして3万年前にですね、主神様はそれを見てホモサピエンス系とネアンデルタール人系をどっちを地球に残すかと判断された時に、ネアンデルタール人を絶滅させたということですので、そのことを考えた時に、先々月拝読をしたですね、352ページの5行目

『以上説いた如く、文化の進むに従って、必要であったものも不必要となり自然淘汰されるとしたら、最後に至って人間と雖も自然の法則から免れる事は出来ないのは勿論である。としたら人間に対するそれは何かといふと、勿論人間に内在する悪である。曩に述べた如く今後の時代は、悪は有害無益の存在となる以上、悪人は淘汰されて了ふのは当然の帰結である。』

と。この文章もネアンデルタール人が絶滅したということに照らして考えれば、この自然淘汰は必ずあるということですので、その事を知らせるために実は浄霊があるという、この浄霊観がそこまでいかない限り、当然浄霊も不必要なものになってきますので、そこまでやらなければ浄霊力は弱まってくるということになってきます。

ですから、私達は、先月と先々月と拝読したですね、神の実在を認めさせるために浄霊力を授けられたのだということと、東西文化それぞれ偏った文化では、この地球上からですねこの不幸を消すことはできないので、東西をまとめていく、結んでいくために浄霊の行使があるのだという・・・御教えを拝読すると、私達が日々いただいている浄霊は、そういうところまで高まった浄霊をしていかなければ不必要に、浄霊力が不必要になるということであります。ですから浄霊をいただく時、先月学んだようにですね、自分が応変自在にどんな問題でも対応できるような人間になっているかどうか心がいつも自由無碍であるか、そうしたことを考えた時に“いやいやまだ私はこだわりがあるなぁ~”とか、“どんなことでも対応できないなぁ~”と思った時は、そういうことができるために自己浄霊を実はいただくのだと、そういう浄霊をですね日々していく。自分達が高まっていかない限りメシヤ様から許されているこの『霊の行使』はですね、薄れていってしまうということを、この3ケ月の学びでしっかり肚に入れておいていただけると大変有り難いと思いますので、そうした事を確認させていただきながら、天国篇を読み進めてまいりたいと思いますのでよろしくお願いしたいと思います。

 

【平成27年9月メシヤ講座 旧大阪支部より】

コメントを残す