御教え集15号 ①曇りがなくなると悟りが開ける
(御論文「運命は自由に作られる」朗読)
いま読んだ通り、すべての苦しみは浄化作用です。それで霊の曇りが除れるのです。そこでいままでの宗教での難行苦行というのが、その方法なのです。というのは、ふつう世間で苦しむのは、やむを得ずなるのです。苦しみのほうがぶつかってくるのです。ところが難行苦行というのは、自分で一生懸命苦しむのです。それでも魂が磨けるのです。それでバラモン教のほうは、苦しんで悟りが開けるといっているのですが、苦しんで悟りが開けるということは、曇りがなくなると悟りが開けるのです。つまり曇りがないから、物事がよく分かるのです。すると悟りが開けるのです。悟りが開けるということは、物事が分かることです。つまり真理が分かるわけです。けれども真理にもいろいろあるのです。やっぱり上中下あります。だから、みんなが真理と思っているところが、ごく下の真理というのが多いです。それで前よりも魂が浄まるのです。迷いが少なくなってくる、判断力が出てくる。しかし、迷いというものは、ぜんぜんなくなるということはないのです。どんな偉い人でも・・・私でもあります。ただ迷いがなくなるのが早いのと遅いのとの異いです。私などは、迷っても半日くらいです。私は、物事をみるとすぐ結論が分かるのです。ですから、こうして庭や建築とかいろいろなことをみても、すぐパッと分かるのです。首をひねるようなことはありません。もしそのときパッと出ないと、考えないでほったらかしにしておくのです。それはやはり時期があって、なにかのときにパッとわかるのです。というのは順序があって、神様のほうで、早すぎると知らせないのです。それで時期が来ると分かるわけです。ですから迷わないで分かるわけです。ところがいまの人は霊が曇ってますから、どんな偉い人でも始終迷いに迷い、考えに考えているのです。で、あんまり考えたりするのに、ろくな智慧は出ないのです。だからやり損になったり、自分で求めて失敗を作っているのです。特に政治家方面などは・・・よく新聞なんかに出てますが、実にあまりに智慧がなさすぎる。ということをよく感じますが、それは霊が曇っているからです。そこで人間は、その曇りをできるだけ除ると、健康になるばかりでなくやっぱり頭が良くなります。そこで頭を良くするのに、つまり曇りを除るのに難行苦行をしなくても除れるというのは、おそらくメシヤ教だけだろうと思います。これはつまり天国的宗教、昼間の宗教だから、明るいから早く曇りが除れ、魂が磨けるから智慧証覚が得られるというわけです。
すなわち病気を治す場合に、疑ってもなんでも治るということは、つまり難行苦行ということはいらないというのと、理屈は一つです。他力です。他動的です。そこにすばらしい値打ちがあるわけです。そんなわけだから運というものは、霊の曇りと平均するものです。つまり曇りのあるだけは、どうしても苦しみはぶつかってくるのですから、いっさいは相応の理といって、すべてなんでも食い違いはないのです。人間には、食い違いがあるように見えるのは、つまり人間が上っ面だけを見て判断するからです。仮に一家にどうしても信仰に入らない人があって、その人が反対したりするが、そうすると反対された人のほうは、始終やきもきしていますが、そのやきもきするほうに曇りがある。その人に曇りがなくなって魂が浄まると、他の人が悩み苦しめることはできなくなる。するとその人は信仰に入ることになる。あの蓄生、人を酷い目に遭わせやがる、あいつのためにとんでもないことになった、あいつはとんでもない損をさせた。またいくら言っても入らないとか、そういうのはやっぱり御自分を見なければいけない。それはそれだけの曇りがこっちにあるからなのです。それによってこっちの曇りを除ってくれるのです。ですから自分を酷い目に遭わせたり苦しめたりするという人は、自分の曇りを除ってくれているわけです。浄化作用の仕事をやってくれているわけです。そこまで来ると感謝してもよいことになってくるのです。
【御講話篇8 P131】