御垂示録22号 ②その人の使命、能力によって御用は違う

(お伺い)

資格者といたしまして、人を救うこと、信仰の向上を図ること、御奉仕とをいかような順序に考えましたらよろしいものでございましょうか。

また金銭物質の意義、方法につきましてお伺い申し上げます。

 

『恐ろしい質問だね。それは、どっちが肝腎だということを考えるそのことが間違ってます。そういうことは考えないのが本当です。というのは、神様はその人の使命、その人に与えられた能力によって人を救う御用をする人もあるし、お金の御用をする人もあるのです。向上は全般ですが、各々その使命があるのです。というのは、そういう事情になってくるのが使命ですから、そうなったらそうすればよいのです。金が集まってきて人を浄霊するよりもというのは、そういう使命があるのです。また金がない、信者をたくさん作るというのは、そういう使命があるのです。それは周囲の事情がそうなってきますから、ただ素直にそのままを考えて進んで行けばよいのです。それから向上ということは、一番のことは智慧証覚です。いろんなことが分かることです。分かるといっても間違った分かり方ではいけません。その標準は御神書です。御神書に書いてあることがだいたい「なるほど」と思えれば、それは智慧証覚がだいぶ上がっているのです。「どうも分からない」というのもあるし、そのときはなるほどと思っても、家に帰れば忘れるというのもあります。いろんなことがフッと分かるのは智慧証覚が向上しているのです。病状をみて、この人はこの病気だということを当てれるのは、よほど智慧証覚が上がってなけれぱならないです。だから以前は五つ分かったが、このごろは六つ分かる、七つ分かるというのなら智慧証覚が向上しているのです。』

 

(お伺い)

御奉仕のやり方想念によってひっかかるのがあるのではないかと思われますが。

 

『お蔭ですか。前に私が大本教にいたときに、ある人が献金を頼んだのです。するとその人は綾部に行く途中で芸者買いをして使ってしまったのです。そうすると無駄なようですが、ところが決してそうではないのです。その想念はすぐ神様に通ずるものです。「それは霊は行っているので、体だけが使われているのだからなんでもない、上げるというのを持って行って途中で使っても同じだ」というので、私はなるほどと思いました。上げたいという想念です。それが一番分かるのは、死んで間もない霊が咽喉が腫れてしようがないと言うので「遺族が水を上げたでしょう」と言うと、「そうではあるが、その想念が悪いから飲めない」と言うのです。「上げたい」という心で上げると飲めるが、女中に任せたり、お役でやっていると、その想念が間違っているから、飲んでもうまくないし、また飲めないというのです。霊的のことは想念が肝腎です。霊主体従で霊が主なのですから、「これだけお上げする」という気持ちで上げると、途中でなくしても、そんなことは関係ありません。』

 

 

【御講話篇9 P168】

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