御垂示録16号 ④素直になって邪念がなくなると急所に行くようになる

(お伺い)

よく明主様が頭が悪いということをおっしゃいますが。

 

『それもそうです。ちょうど山と思えば良い。ここよりも(少し上)に行けば良く見えます。頭が悪いということは、ここ(下層)にいれば、ちょっとしか見えないからです。ここ(最上部)に行けば、なんでも見えるから、頭が良いというわけです。』

 

(お伺い)

徳を積めば良いということで、どうすることが一番徳を積むことになるか、ということをよく聞かれますが、その一番のことは、明主様のお仕事のお助けになることをさせていただく、ということが一番良いということでございますので。

『それは間接な言い方ですが、直接には人を仕合せにすることです。要するに徳を積むことです。それが明主様のお仕事の手伝いをするということになるのです。』

(お伺い)

もう一つは、人間の目で見ましたところでは、ああいう人、こういう人ということがございますが、一番はっきりしていることは、一万円と二万円は、だれにでも分かります。それから期間で、その連続が一番お陰をいただくというわけでございます。

『そうです。はっきり分かるのです。だから要するに理屈は簡単なものです。ややこしいことはありません。むしろ簡単なために分からない場合がよくあるのです。こうして(御浄霊)病気が治るということと同じです。医者が大騒ぎして治らない、こうして治るものか、と。かえって簡単すぎるために、分からないことが多いのです。それはいままでややこしい面倒臭い世界に住んでいたからで、ちょうど薄暗い所に住んでいたから見えないが、明るいとすぐ見えるのです。それが霊的であって物質的でないから、すぐに分からない。従って、いろいろと分かりにくいわけです。それが一つの仕事というわけです。だからその人によって、話で分からせるのの上手下手というか、急所ですが、さっきも言った通り、急所を見るのです。この人にはこういうことを言えば分かる、しかしまた人によって違うのです。この人にうまく言ったことを、他の人に言っても分からないのです。人を見て法を説けということです。それは別に考えなくても自然になるものです。その人の心が素直になって、要するに邪念がなくなると、自然にその人の急所に行くようになるのです。それがそうならないということは、その人に我があったり邪念があって、自分がしゃべろうということになるから、それでスーッといかないのです。この教えは応身というのですから、先方に応ずるようにすると、ちょうど先方に触れるような話になってしまうのです。これは、なかなかやさしくて難しいのです。それが一つの修行です。そこに行くように、だんだんやることです。そうすると急所にいくから、先方でなるほどと心が動くというわけです。だから頭が良いとも言えるし、霊位が非常に高くなるとそうなるのです。むやみにしゃべっても割合に効果がないのがありますが、鉄砲打ちの名人みたいなもので、一発で中るのと、散弾などをバラバラ射って、やっと一つ中るというのと同じです。』

 

(お伺い)

やはり叡智と濁智でございます。

 

『そうです。そういった味わいはおもしろいものです。あんまりしゃべってはいけないし、しゃべらなくてもいけないし、時と場合によって、千変万化自由無碍というわけです。だから一つの学問みたいなものです。ただこのほうの学問は、世の中の学問とは違うわけです。こっちは高級なのです。大学以上です。だからそういうふうになれば、どんな学者や大学の先生でも、ちゃんと先方で頭を下げます。私は高等小学だけみたいなものですが、先方は大学の先生でも頭を下げてきます。これはその一つの見本です。』

 

【御講話篇6 p328】

コメントを残す