頑張りも一種の執着である
世間よく頑張りという言葉を聞くが、之は近頃出来た言葉らしいが、此言葉の意味を考えてみると、どうも人間の力に頼りすぎる感じがする。それは事実をみても分る通り、成程一時は効果があるようだが、結局に於て反対の結果が多いようである。特に信仰者はそうであって、此点世間の人とは大いに違う。というのは頑張りという言葉は已に神様を忘れている訳である。勿論私と雖<いえど>も昔はそういう事もあったが、信仰の真髄が分るに従って、甚だ間違っている事がよく分るのである。
いつもいう通り、信仰の妙味は何事も神様にお任せする処にあるのであるが、信仰の浅い人はそれだけではどうも頼りない気がするので、自力に頼るといったようにその点ハッキリしない。といってもお任せきりでも困る。ヤハリどこまでも人力を最大級に尽す事であって、そうしておいて神様にお任せする。此点難しくもあるが又妙味もある。処が茲<ここ>に間違い易い事がある。それはお任せして安心していると、思わぬ災が振りかかる場合もある。そこで迷うのだが実は神様はその人の信仰を試す場合、ワザと迷うような苦しみを与える事もある。そこを頑<がん>としてフン張れば及第した事になるから、その後は結構にして下さる。その場合邪神のする事を許される。つまり神様は邪神を利用されるのである。即ち何<いず>れにせよ結果は良いのであるから、徒<いたず>らに人間的考えで決めるのは危<あやう>い話である。それには何よりも心の持ち方が肝腎である。之に就いて大本教の御筆先に斯ういう一節がある。「御蔭は心でとりて下されよ」と実に寸鉄殺人である。
そうして此事は世の中を見ても分る。その最も大きい例は此間の戦争である。最初は大いに勝って有頂天になっていたが、それも束<つか>の間<ま>でいつしか段々不利になって来た。その時気がついて方策を立て直せばいいが、仲々そうはゆかないもので、遂にアレ程の惨めな終幕となったのである。此原因の一つは、誰も彼も勝利を夢見て、飽迄頑張り通そうとした点である。つまり頑張れば頑張る程無理が出来、結果は逆になるもので、近くはヒットラーの失敗にしてもそうで、何<いず>れも頑張りの失敗である。先ず頑張りで勝つのはスポーツ位であろう。
今一つ注意したい事は、何事も時節がある事で、之から萌<めば>えようとする春の季節と、凋落<ちょうらく>に向う秋の季節があり、作物にしても種蒔き、穫入れ等それであるように、人間の運命もそれと同様であるから、その点よく見定めてから着手する事である。私の経営がスラスラ行くのは神様の御守護は勿論だが、行<や>り方もそれを方針としている為である。又世の中の推移時世の変化も、近頃は特に甚だしいので、今可<よ>いと思った事でも忽<たちま>ち変る事がある。最近の経済界にしてもそうで、一時特需景気などといっていい気持になっていたのも束の間、貿易逆転、金詰り、不渡手形の激増等目も眩<くら>むような変り方である。以上ザットかいて此位だから、他は推<お>して知るべきである。ではどうすればいいかというと、大して難しい事はない。つまり頑張りも一種の執着であるから、之を慎む事であると共に、成功だけを考えないで失敗も必ず算盤<そろばん>に入れる事で、失敗したら斯うと予<あらかじ>めその方法を立てて置く事である。又やり始めてみて少しまずいと思ったら一時陣を退<ひ>き、徐<おもむ>ろに考えて行<や>り直すのである。
私は神様が後<うしろ>に居られるから左程まで心配はしないが、それでも一寸やってみて、何か故障が起ると直<すぐ>にやめて了う。その例として熱海地上天国の美術館の予定地にしていたアノ地所へ、最初手を付けるや、確かジェーン台風だったと思った、その台風の為一部に地崩れがあったので、之は止めよとの事と思い、晴々台に替えたのである。まだ色々あるが、一例だけかいたのである。
【頑張りより 著述篇12 P386】