奈良県 春日大社 東大寺

春日大社に入るとすぐ末社の祓戸神社の瀬織津姫様に御参拝して清めてからお進み下さいとのことです。

メシヤ様がこの春日大社の御参拝も非常に大切な目的であられたと「みあとしのびて」に記されています。

(本文より)

というのは、春日大社の御祭神というのは、武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神の四神であって、前の二神は、それぞれ、鹿島神宮、香取神宮の主祭神であり、明主様は、この両社には、昭和六年、昭和十六年の二回、いずれもご神業の大きな変り目の年にまずご参拝になられているくらいであるから、奈良でも、まず第一にご参拝になられるものと拝察していたのであった。(中略)

さて、本教熱海美術館に「春日曼荼羅」「春日鹿曼荼羅」という、いずれも室町時代のものといわれる名作がある。

前者は、当時の神仏混淆の時代信仰をあらわして、上部にはたくさんのみ仏たち、そして下部には、当時の春日大社の全景をあらわした極めて美しい絵で、住吉慶思という人の作品と伝えられている。

この絵はその芸術的評価の外に、今日の社殿規模が、往昔のそれとたいして変わらないという、史料的価値からしても極めて注目すべきものであり、また後者は、鹿が背中に曼荼羅を背負っている異色な構図で、私たちはまたこの絵から、奈良の鹿が、いわゆる神鹿として、ずいぶん古くから信仰的なつながりをもって大切に扱われ、今日に至ったことを知ることができるのである。

美術品の蒐集には特別にお厳しかった明主様が、特に春日大社にゆかりのある名作を探し求められた点からも、明主様の大社に対するご関心を拝察することができると思われるのである。

また、 鹿島・香取神宮~意味深いご参拝~より

明主様が、鹿島・香取の両神宮にご参拝になられたことは前後二回ある。

その第一回は昭和六年七月一日のことで、このときは、当時盛んであった瑞光会という短歌会の、同人たち三十名とご一緒の、日本水郷から両神宮への吟咏行のお旅であった。

坂東に名だたる鹿島香取なる神宮に詣でぬ今年文月

老杉の森々として神さびし鹿島の宮に懐い深しも

やはり、房州鋸山において天啓をうけられたご神事の直後のお旅であっただけに、表面的にはともかく、その裏に深い神秘のあられたことを察せられるのである。それが"鹿島の宮に懐い深しも"と詠まれたものであろうか。

第二回目のご参拝は、昭和十六年六月二十二日のことであった。

このときも、その直前の五月には丹波元伊勢神宮にご参拝になり、その直後七月には伊勢の皇大神宮に、さらに十一月には信濃善光寺に参拝になられたのであるから、霊的には大きな意味がなければならない。このときは、渋井、百海、井上先生たちのお伴を含めて総勢十一人のお旅であった。さて、日本神話によれば、天照大神が皇孫の瓊瓊岐命を降臨させる前に、武甕槌の神と経津主神と事代主命との平和交渉に成功して、これを従えさせたが、あくまでも抗戦する建御名方命を追って、ついに信濃諏訪湖のほとりで討ち従え、やがて、この豊葦原瑞穂国を平定したという武勇の神であるが、鹿島神宮はこの武甕槌神を、香取神宮は経津主神を祭神とする古い社で、昔から皇室をはじめ、とくに武人の崇敬した神社であり、それぞれ常陸国、下総国の一の宮であった。

春日大社の金龍神社(右上の画像)前の太陽は物凄くジリジリとしていました。

また、春日大社の国宝殿では源義経奉納で有名な国宝「赤絲威鎧」がございます。

春日大社、香取鹿島両神宮も深い意味があったのだと拝察されます。

【左記 大仏殿】                             【右記 南大門】

聖武天皇が地震や疫病などの災いで仏教に救いを求め、全国に国分寺や国分尼寺、総本山の奈良東大寺に大仏をつくられたそうです。

毎年5月には遺徳をしのぶ「聖武天皇祭」が営まれています。

昭和28年10月19日メシヤ様が東大寺に参られた際、東大寺の大仏よりも戒壇院の諸像らに対してより関心を御示しになられたそうです。

メシヤ様は、戒壇院の四天王は数少ない奈良朝の塑像のなかでも第一の傑作というべきであると仰せになられています。