書籍紹介②謎の出雲帝国
今回は、吉田大洋さんの書籍「謎の出雲帝国」より考察させていただきます。
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富當雄さん(67才)は元サンケイ新聞編集局次長で出雲王朝4千年の歴史を継ぐ、大国主命直系の子孫で古代王朝の史実を先祖から代々口づたえに伝承してきてその詳細を全部脳裏にきざみこんでおられたそうです。
出雲大社の東の出雲井神社には富家の遠つ神祖、久那戸(クナト)大神が祀られており、久那戸大神は、日本列島を産み出したもうた伊弉諾、伊弉冊の大神の長男。つまり出雲王朝の始祖で先祖の中には、毒殺された者が数名おられるそうです。
国ゆずりは、天孫族と出雲神族との血みどろの戦いの中で行なわれオオクニヌシ以下、コトシロヌシなどの部将も殺された内容が書かれていました。
その中で、今回は八岐大蛇の事を中心に研鑽させていただきました。
八岐大蛇のスサノオの剣は『石上神宮旧記』によると天津羽羽斬(あめのはばきり)、天蠅斫之剣(あめのははきりのつるぎ)、蛇之麁正(おろちのあらまさ)というそうで、これは「龍蛇族を斬った剣」を意味するようです。
【御教え】
お伺い
素蓋鳴命が八岐大蛇を退治されたとき、尻尾から一振の銘剣が出たので、それを天照大神様へ献上されたという伝説が、もし真としますと、八岐大蛇は剣のみ呑んでいたのでありましょうか。あるいはだれかそのような銘剣を偲びた「尊」でも呑んでいたのでしょうか。尊なれば何尊でございましょうか。御垂示のほど謹んでお願い申し上げます。
『勿論人間を呑んだに違いない。また呑まれた人は当時の最高位のお方でもある。というのはその剣は都牟刈(つむがり)の太刀(たち)
教えの光
と言って、尊い霊力であるからである。これについては神秘がある。それは大蛇の尾から出たのであって、この太刀というのは世を救う御魂である。八岐大蛇は、悪の世界に譬えられ、その尾というのは下層階級という意味で、下層階級から神人が生まれるという謎でもあるのである』
上記を考察させていただきますと、龍蛇族(出雲神族)で最高位の御方の剣と拝察され、この剣は草薙の剣と言い(天村雲剣ともいう)、大和の王権の象徴であり三種の神器の一つでもあります。
神話では、スサノオが天孫二二ギへ渡りヤマトタケルが引き継いだとなっておりますが、出雲口伝では、出雲王家から五十猛へ土産に渡され、巡り巡って名古屋の熱田神宮に納められたと書かれています。
元々は出雲神族の王の象徴の剣だったのです。
物部氏直系を名乗る神魂神社の宮司の秋上氏は八岐大蛇について、「出雲神族は弓が浜を拠点とし、古志(越前から越後)の人々を使って肥川を治水し、砂鉄を採っていた。古志人はなかなかの暴れん坊で鉄を求めてやってきたスサノオとまず衝突したのが古志人」と仰っております。
【御教え】
日本にいた八岐大蛇といふ土匪を退治して日本を領有したといふ解釈があるがそれでもいいと思ふ。(S23.7.18)
講話集(補)
私は先年出雲へ参拝の折、同神社の裏手の海岸に日の御崎という処がある。神官の説明によれば此処から毎年十月初め神様は故郷にお帰りになり、一カ月を経てお戻りになるとの事である。之でみれば出雲の神様は日本生え抜きの神様ではなく、外国から移住された神様に違いない。昔から十月を神無月と言ったのは、右の行事によったものであろう。そうして大国主命の父親は素盡鳴尊になっている。『古事記』によれば素盡鳴尊は、朝鮮の曾戸茂梨山(そしもりやま)へ天降られた事になっているから、朝鮮に生誕された神様である。そうかと思うと伝説にもある通り、出雲国簸(ひ)の川上に於て、八岐大蛇を退治し櫛稲田姫の生命を救うと共に妻神として迎え、夫婦生活をなさるべく、今日の出雲神社の位置に、須賀官という新居を作られた尊は、新築の家へ初めて入居された時、「あなスガスガし」と仰せられたので、須賀官と名付けられたという説もある。そうして余程琴舐相和(きんしつあいわ)したと見えて、其気持を表わすべく詠まれたのが、彼の「八雲立つ出雲八重垣つまごめに、八重垣作るその八重垣を」という歌で、之が三十一文字の哺矢(こうし)という事になっている。としたら和歌の先祖は素盡鳴尊となる。
日本人種の霊的考察(上)
又、単に素蓋鳴尊と言っても、三つの神名がある。神素蓋鳴尊、速素藷鳴尊、竹速素蓋鳴尊であるが、私の考察によれば右の順序の如く、三代続いて次に生れたのが大国主命であろう。茲に注目すべき事は、出雲神社では古くから今日に至る迄、不消の火と言って、灯明を点け、其灯を移しては取変えて、今日迄決して絶やさないそうである。それを二千年以上続けて来たという事は、何か余程の意味がなくてはならない訳で、考えようによっては、再び復権する日迄血統を絶やすなとの意味かも知れないと想うのである。
之も余談であるが、大国主命に二子があった。長男は事代主命、次男は建御名方命である。処が長男の命は至極温順で、降伏に対しても従順に承服したが、次男の命はどうしても承服せず、敵に反抗した為、追われ追われて、遂に信州諏訪湖の付近に迄逃げ延び、湖に入水して、あえない最後を遂げたという事で、それを祭ったのが、今日の諏訪神社である。
茲で、話は又最初に戻るが、右の数々の史実は、神示にまれば斯うである。初め神素蓋鳴尊が日本へ渡来した時、最初に上陸した地点が出雲国であった。処が当時日本の統治権を握っていたのが伊都能売神皇で、此神皇は余程古代からの、日本の真の主権者であったらしい。先ず、大和民族の宗家といってもよかろう。処が大和民族の性格としては、闘争を極端に嫌い平和愛好者なるが為、素蓋鳴尊が武力抗争の態度に出たので、無抵抗主義の為生命の危険を慮り、海を渡って某国に逃げのびたという事である。それで後に残ったのが御世継である天照天皇と其皇后であったが天皇は、或事情によって崩御されたので、皇后は其大権を継承される事になったが、事態の切迫はやむなく素蓋鳴尊の要求に応じない訳にはゆかなくなり、一種の講和条約を締結したのである。其条件というのは、近江琵琶湖を基点として、西は素盡鳴尊が領有し、東は天照皇后が領有するという事になった。之が『古事記』にある天ノ八洲河原の誓約である。
八岐大蛇は土匪(古志人)だと仰せになられていると拝察できます。
上記御神書の、『大国主命に二子があった。長男は事代主命、次男は建御名方命である。処が長男の命は至極温順で、降伏に対しても従順に承服したが、次男の命はどうしても承服せず、敵に反抗した為、追われ追われて、遂に信州諏訪湖の付近に迄逃げ延び、湖に入水して、あえない最後を遂げたという事で、それを祭ったのが、今日の諏訪神社である』のところですが、御神書では三代目スサノオが大国主ともとれる内容で複雑なのですが、これは記紀の歴史通りに仰せになられたからだと見えます。
なぜなら、出雲口伝では天孫族の本拠地は九州にあり、稲佐浜における攻防戦が始まった。出雲神族には戦いの歴史がなかった。後退につぐ後退を強いられた。オオクニヌシは至急、水軍の将であったコトシロヌシを呼び寄せ、善後策を協議した。
「これ以上、出雲人から犠牲者を出したくない。敵の要求をのみ、国ゆずりをしようと思うが、どうだろうか」
「私個人としては反対です。でも、お父さんがそうおっしゃるのなら、従いましょう」
コトシロヌシは天孫族に呪いの言葉を残し、海へ飛び込んで自殺した。そのときの模様を再現するのが、美保神社の青柴垣の神事とのことで、 富氏は唇をふるわせながら、「青柴垣の神事は、天孫族への恨みを決して忘れないぞという、出雲人の無念さを表わすものなのだ、屈辱の神事でもある。観光客に見せるようなものではない」と。さらに、「美保神社は、富家のものだった。いまの神主の横山氏はうちの代官で、朝鮮との貿易であがる税の取り立てをやっていた。現在、祭神はコトシロヌシとミホツ姫ということになっているが、本来の祭神はミホススミノ命である。呪いを残して死んだコトシロヌシは、天孫族から非常に恐れられていた。そうした者を祀らせてくれるわけがないだろう。八重垣神社にしても、オオクニヌシの娘が祭神で、スサノオとは関係がなかった」
スサノオはオオクニヌシと無関係でむしろ敵対関係であり、天孫族と出雲神族を結びつける手段としてスサノオをオオクニヌシの父としたと書かれています。
ということは、系譜を改竄されたということになります。
八重垣神社はオオクニヌシの娘が祭神、ということで現在の御祭神を調べますと、娘にふさわしい方は稲田姫命さまとなります。
後ほど重要となりますので覚えておいてください。
ヤマタノ大蛇退治は宗教戦争だった。
「オオクニヌシは、古代出雲において重要な存在ではなかった。出雲大社が杵築へ移ったのは霊亀二年(七一六)のことで、それまでは熊野にあり、クナトノ大神を祀っていた」
クナトノ大神は、岐神、来名戸之祖神、衡立船戸神、八衢神、久那斗神などと書く。天孫族もこの神は畏敬しており、都を移すごとにサエの大通りを作って祀り、六月、十二月には道饗祭を催し、祝詞を捧げ常磐国など東国はこの神が開拓したもので、香取神宮の主祭神(普都大神)。
まとめ
〈八岐大蛇 スサノオの侵攻〉
スサノオが砂鉄を奪うために、朝鮮から馬を連れて、須佐の港へやってきた。ヒイ川の古志人が暴れ、テナヅチ、アシナヅチが助けを求めたので、スサノオがこれを制圧した。彼は次第に増長し、出雲をわがもの顔で歩いた。スサノオはテナヅチの娘と結婚した。
天孫族が、九州から船で攻めてきた。その前にやってきて、王の娘と結婚していたホヒが手引さしたのである。稲佐浜で戦ったが、一敗地にまみれた。オオクニヌシはコトシロヌシに、「これ以上、出雲人が殺されるのを見るのはしのびない。国(王位)を天孫族にゆずろうと思うがどうだろうか」と相談した。
「私は反対ですが、お父さんがそうおっしゃるのなら従いましょう」
コトシロヌシはこう答えると、天孫族への呪いの言葉を残し、敵将の前で海に飛び込み自殺した。オオクニヌシは、ウサギ峠のほら穴に閉じ込められて殺された。ミナカタノトミノ命はゲリラ戦を展開しながら越に後退し、のちに信濃を平定して第二出雲王朝を築いた。
今度は神武が九州から攻めてきて、神武は防府、河内、熊野などで六人死んだ。七人目の神武は強かった。その上、我々が「カラの子」と呼んでいた、朝鮮からの渡来人ヤタガラスが神武の味方についた。彼等は和解すると見せかけては、次々と出雲人を殺していった。まことに陰険であり、残酷であった。王のトミノナガスネ彦は傷つき、大和を神武にゆずって、出雲へしりぞいた。王は出雲で亡くなった。神武は橿原で即位し、大和の王となった。
これが出雲口伝の神武天皇までの歴史のようです。
スサノオはテナヅチの娘と結婚した。ということは土匪の古志人の娘と結婚ということになります。
そしてオオクニヌシとコトシロヌシは出雲神族の伝承だったこと。
さらに書籍に書かれていた興味深い内容がもうひとつございまして、八幡大神は本来インドネシアから台湾、あるいは朝鮮ルートを渡ってきた龍蛇族が奉じた神とされ、神紋が「三巴」を用いており、いつからかヒボコ系の応神天皇を祭神とし、源氏の氏神に変身したと書かれています。
御神書では、
九州の宇佐八幡宮は、御神体が彦火々出見尊と言はれて居りますが、観音様とは如何なる関係がありませうか。
『古い八幡様は彦火々出見尊で、これが本当の八幡様である。新しい八幡様は応神天皇である。観音様が、神様であらせられた時の伯父、甥位な関係になっている。』(S24.4.28)
講話集(補)
元の八幡神は彦火々出見尊と書かれており、後に応神天皇になり応神天皇は大和民族であり観音様であると仰せになられ、また岡田茂吉師の前世でございます。
八幡神は龍蛇族=出雲神族=観音様=彦火々出見尊=応神天皇
彦火々出見尊は、神武天皇より数代前である。
あまり長生きしなかった。若死したらしい。胆も力もある神。天照大神様の甥位になる。相当の神であった。八幡様は彦火々出見尊である。
観音様は伊都能売の神様で、伊都能売神様と天照大神とは非常に関係がある。(s25.2.5)
講話集(補)
書籍では、ヒボコ族と天孫族が同化し、後にクナト大神の神宝である勾玉を奪ったとされていますので、ヒボコ系の応神天皇と言うのが真実であるならば、出雲神族と天孫族の混血した応神天皇と拝察されますが歴史は本当に複雑です。
また、以下の御教えでは
本年二月にさかのぼって出雲地方に起きた霊的現象につきお伺い申し上げます。
Y・Cなる引き揚げ未亡人教師に龍神憑依し、いかに聞いても「出雲地方にて三千年来神と祀られていた者だ」と、「また八岐大蛇の第一の春族だ」とも言い、八岐大蛇が「後はよろしく頼む」と言って姿を消し、いまはどこにいるやら「そのとき名前は絶対に言うなと言ったから言えぬ」とも言い、また奇稲田姫のお側におった者だとも言いました。ついに三月の本部大祭の節「明主様に御面会してから名乗る」と約束して大祭の当日、余興の始まる前「気持ちが悪いから浄霊を頼む」と言うので浄霊いたしますと龍神が憑依し、御面会させてもらった御礼を言い、それより口はきかなくなり、畳に文字を書くようになりました。約束通り名前を聞きますと「出雲の朝山八幡に来てくれればわかる」とのこと。その後四月にいろいろ調べて米子の四月の月並祭後参拝に行きました。そのとき霊視能力者を連れて行きましたところ、祭神は応神天皇になっておりましたが、参拝終わって霊視者に聞いてみますと、われわれが第一鳥居をくぐるときから、神殿正面に衣冠束帯の顎鬚の長い、上衣は茶色、下袴は白、冠は後ろに長くたれ、袖の上部は紐にてあんであり、少し頭を下げられた老貴人の姿が見え、側に女神で髪はおすべらかしで十二単の御姿が見えたそうです(前に浄霊したときには龍神にて目は野球のボールくらい、角は短くひげは片方一尺五寸くらい、胴全部がもしも見えたら室いっぱいになるような大きさで、私が天帝(額の中央)を浄霊するたびに非常に苦しがり、実にものすごい形相だとのことでした)。参拝終わって出雲I市のY宅に帰る途中、雨となり、風も出て汽車より降りたときには突風が起り、雨もまじってものすごいふき降りになりました。さては龍神が来られたなと思い、さっそくY宅にて浄霊いたしましたところ、龍神憑依し、今日の参拝の御礼と名前を、涙を流し袖にて顔をかくし、いかにも残念そうに応神天皇と書きました。なお、今日まで邪魔をしていたことをわび、今後の協力を誓って帰りました。右の応神天皇と龍神との関係をいかに解釈させていただきましたらよろしいでしょうか、御垂示のほどお願い申し上げます。
女神は聞きましたるところ、応神天皇のおきさきとのことでした。『応神天皇がある執着のため、龍神に堕ちていられたので、教われたいため私に面会を求めたのである。それによって人間に教われ、元の応神天皇となったので、知らせることができたのである。そのありがたさにより、今後は大いにお手伝いをされるから、いずれ現実に分かるはずである。』
教えの光
上記を読ませていただきますと、出雲地方にて三千年来神と祀られていた者であり、八岐大蛇の眷属(一族、親族という意味)、そして奇稲田姫のお側におった者、応神天皇の御后だと書かれております。
応神天皇は八岐大蛇の一族で、御后が奇稲田姫であったのです。
大和王権にまつろわぬ者たちは、土蜘蛛、エミシや鬼に例えられているようです。
御神書では、八岐大蛇は夜の世界を表し、邪神に見立てられたのではないかと思われます。
国常立尊様もいまだに節分があるように、鬼に例えられておられますので、歴史の表現と真実は真逆なのかも知れません。
でなければ応神天皇は、何に対して執着し、龍神になられておられたのでしょう。
歴史改竄、封印された執念があったからではないでしょうか。
そして、「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」のお歌がございますが、これはスサノオがクシナダ姫を妻として御歌を詠まれたと歴史ではなっておりますが、実はこれも古代出雲族が作った御歌で、「一夫一婦」の掟(おきて)の内容で、スサノオとは無関係なのだそうです。(詳しくは書籍をご覧ください)
そういえば御神書でも、和歌は大和民族が作ったとあったと思います。
八は出雲神族の聖数であり、五と三で八、出雲の神で伊都能売…
検索🔍で出雲族、八が聖数…で検索して見てください。
一夫一婦制・・といえば国常立尊様の掟でもございます。
そして、彦火々出見尊様は対馬の和多都美神社の御祭神であり、御神事でもサルタヒコノミコト様がお出ましになられました。サルタヒコノミコト様はクナト大神、出雲神族の祖神ですから納得です。そして上記御教えにございますように観音様であり、伯父と甥の関係ということでより明確にわからせて頂けるのではないでしょうか。
出雲旧家の伝承では約4000年前にインドから移住して出雲王国を造ったとされていますが紀元前に春秋歴が使用されていたと考えられ、そうすると約3000年前位となります。
3000年前と聞きますと、丁度夜の時代に入った頃で国常立尊様が統治されておられた時代でもございます。
縄文時代、日本で広域の統一王国は出雲王国であったことは確かなのですから、
そうなりますと、必然的に国常立尊様とクナト大神が繋がってまいります。
そして古代の信仰の地はやはり、伊雑宮で、伊雑宮こそが本家であったと書かれております。
こちらは6月に行かせて頂きましたが、『伊雑宮旧記』によると、当社は竜宮で的矢湾の入口の海底深くには、神代の昔からの石の鳥居があると信じられていたとのことです。
これは天照皇大御神様奉祝大祭を終えての記事に書かせていただきましたが、伊雑宮の地下には真の天照大御神が御鎮座されていて、今もなお封印されていてここが開けば天照大御神様がご復活なされ、世界を正しい方向へ導くとされ、鍵を握る神社ともいわれているのは、上記の海底深くの神代からある石の鳥居を意味しているのではないかとも拝察されます。
伝えられている歴史では分らない部分が御神書に記されて、御神書に書かれていることを書籍や口伝・伝承を通じて解らせて頂き、今回も御教導賜らせていただきながら進ませて頂きました。
最後までお読みいただき誠に有難うございます。
如何でしたでしょうか。
御神書は昭和の時代に岡田茂吉師が書かれた書物になります。歴史以外にも、数々の真理が書かれております。
歴史研究者の方々に何か繋がる部分がございましたら、大いに抜粋・リンク・拡散に御活用下さっていただいて大丈夫です。
また何か御質問等ございましたら、お気軽にお問い合わせください。
本当の歴史をお出しさせて頂く為に、御神書とともに考察させていただいております。
どうぞよろしくお願いいたします。
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