御講話 ①心の岩戸について
ご講話 昭和10年2月11日
この間も高天原のことを話しましたが、天の岩戸はどこかという研究がありますが、扉が信州の戸隠山まで飛んだのだからどこか関東にあるという説がありますが、これはどこにもあります。小さくは人間の心に岩戸があります。観音様のこと帝知って悟った人は、心の岩戸が開けたのであります。それですから、話しても観音様のことが判らん人は岩戸を堅くしめているのであります。話をしたり本に書いてあるのを見て開く人もありますが、開く人が少ないのであります。
心の岩戸に光を与えると一番早く開きます。二番の根本は、世界の一番根本の岩戸を開けることであります。いまはあらゆる階級や国魂がしまっております。岩戸が開けば、天照大神様が住まっているのであります。心の岩戸を開けば、太陽の光明を拝めます。観音様の光を感じて拝める人は、心の岩戸が開いているから拝めるのであります。
心と魂とは違います。人間の五体仝部に行き渡っているのは、精霊でありまして、その中心が心であります。それゆえ中心の心は芯であります。心の中にまた、魂が入っております。魂は非常に小さいもので、心の百分の一であります。また、心は精霊の百分の一で、体からは干分の一でありますから、九分九厘と一厘となり、また、千騎一騎のことにもなります。千分の一の魂が、千倍の体を左右するのであります。心の岩戸が開けるとは、魂を包んでいる心が開けるのでありまして、心の岩戸が始終堅くなっておったのが開けるから、魂が光を拝むことができるようになるのであります。いままでの教えや道徳では、魂まで届きません。心までより届かなかったのであります.....(省略)
観音会の仕事は、人間の心の岩戸を開ければ、世界中開かれるのであります。宇都売之命が踊って神々様を笑わせますが、観音会には笑いが必要なのであり主す。なぜかと中しますと、議論や説教では岩戸は開けません。笑いはにこやかであります。笑い合うようでなければ心の岩戸は開けません。議論や小言では逆に岩戸がしまってしまいます。
観音会は話などせず、祭らして拝ませればよいと言うのであります。藪から棒に祭れと言っても駄目でありますから、御神徳話をすればよいのであります。それで話ができるのであります。
いままでの宗教は教えとか説教とかで責めて行きます。理屈や言葉の数で責めるのであります。天理教では四時間でも五時間でも座ってやってますが、間違いであります。値打ちのないものは説明がいりますが、価値のあるものは説明はいりません。話をすれば判ります。大いに笑う気分でなければ駄目であります。本当の岩戸は開けんのでありますから、観音会では笑冠句を奨励しております。他ではこの催しはやりません。