直観した印象こそ、物そのものの実体を把握して誤りがない
人間は物を観る場合、物そのものを些かの狂いなく観る事は容易ではない。物の実態の把握は洵に困難である。之は何故であるかという事である。
元来、人間は誰しも教育、伝統、慣習等種々の観念が統合的に一つの棒のようになって潜在しているものである。がそれに気付く事は殆んどない。之が為、物を観る場合その棒が邪魔をする。例えば、新宗教を観る場合でも、新宗教はみんな迷信邪教であり、インチキであると決めてかかる事で、全く棒が妨害するのである。今日の社会人は、絶えず新聞雑誌から眼を通じて新聞人の意見が入ってくる。ラジオや人の噂からも耳を通して入ってくるという訳で、増々棒が太く固く出来上ってくる。医者で治らない病気が信仰で治った奇蹟を見ても、そのままを素直に受け入れる事が出来ない。先ず真先に疑惑を起すのであるが、之が棒の為である。病気は医学で治るという観念が棒の中心をなしているからで、もし治ったとしたら、それは治る時節が来たからだというように、棒が種々の理屈をつけ、事実を彎曲してしまうという事は、吾々の常に経験する処である。
斯様に人間の陥り易い過誤を訂正するのが直観の哲学である。即ち物を観る場合、棒に禍いせられない、虚心坦懐白紙の吾となるのである。それにはどうすればよいかというと、刹那の吾となるのである。即ち物を観た一瞬、直感した印象こそ物そのものの実体を把握して誤りがない。従而、確かに難病が治った事実を此眼で見たなら、そのまま信ずべきで、それが正しい見方である。然るにそんな筈はない、器械や薬で治らないものが、眼に見えない空に等しいものなどで治る訳がないと思うのは、最早棒が邪魔しているからである。そこへ誰かが、「それは迷信だ。そんな馬鹿な話があるものか」と言うのは、他人の棒が邪魔の協力者となったのであるから、此点大いに警戒しなければならないのである。以上が直観の哲学のホンの概念である。
【 著述篇8 P16 直観の哲学より 】