仏教の教導のあり方
Q. 仏教の研修会に参加致しまして、神棚を取り除くように指示されました。仏壇内を美しくするように、という指導はいいのですが、「位牌はなくてよい」、「阿弥陀様だけでよい」とも言われました。このような教え方はいかがでしょうか?
A. その宗派の特徴が出ているのでしょう。
日本の精神史を辿ってみると、仏教は日本へ入って来る時に大陸から儒教を伴って入って来た訳です。儒教の位牌と神道の霊璽に共通するところがあり、仏壇へ位牌を設(しつら)えるようになったようです。そして、仏教が日本へ定着して行き、やがて権力者とくっついてゆきます。そして武士道へと盛り込まれ「死ぬ事に見つけたり」という精神が生れたとされています。
武士道の前提として「死」というものを見つめたということです。これはいい意味で「武士道」が再評価されている原点にもなっております。それが映画「ラスト・サムライ」を作り出したのですね。「如何にして死を迎えるか」ということを考えれば、「いい生き方をせねばならない」という精神が生れ、倫理観が厳格になります。
逆に「死」というものを前提にしない考え方では、目的のためならば何をやっても良いということになります。どこかの国のように、賄賂などが横行しても平気ということになるのです。
現在日本では、仏教は「葬式宗教」のように見られがちですが、死に対する考え方は本来高次元なんですよ。前回の「五輪塔」の話を思い出してください。玄侑宗久氏は「四大(しだい=地、水、火、風)が分離して『空』に還るというのが仏教的死です」と述べていますが、仏教界はそうした死生観をもっている訳ですから、もっとそのことを伝えていかねばいけません。
五輪塔の思想は、神代文字の形成論理とも繋がっていす。森羅万象の生々化育、集合離散のメカニズムが形に盛り込まれているからです。元々、日本の神様が教えたものですから繋がりをみるのは当たり前ですが。そうしたことから生と死を理解してもらう、ということを積み重ねていってほしいですね。
葬式という儀式だけではなく、論理的な死生観をもっと勉強して檀家へ取り次いで行くと良いと思います。それが、本来の教導というものです。そして『信仰は 真の智慧(ちえ)なり 証覚(さとり)なり 証覚なくして 感謝うまれず』と詠じられている通り、感謝の生活へ導いて差し上げねばなりません。